「何もない」ということ

 先入観にせよイメージにせよ、そういったもやもやした偏見は旅行する上で欠かせない。素人旅行者は、先入観を確認して喜ぶために旅に出ることが多いし、旅慣れた者は先入観を壊し、新しいイメージをもたらすような刺激を求めている。その意味で、「底抜けに陽気なブラジル」だの「絶対的な混沌の国インド」だの、いくぶん勝手な予測だけが「楽しい」旅行の動機になりえるように思う。第一、みやげ話を聞く友人たちも、何のイメージも魅力も湧かない旅行などに興味を示してくれはしない。

 ラオスに入国する前、僕はタイを5日かけて縦断した。タイは印象深かった。初めての海外体験だったからというわけではなく、首都バンコクの活気は、通貨危機直後とは思えないほどだったのだ。旅行者が集まってくるカオサン通りは、英語のネオンがまたたく欧米色の濃い街なのだが、どうしようもなくタイ的だった。欧米の文化をためらいなく飲み込んで、それでも「タイ」という国がどっしりと根を張っていた。あのとき感じた僕の感覚を具体的に例えることはできない。柔軟なくせに独自性を失わない国民というものは、逆の傾向を持つ日本人にとって、とても魅力的に映る。

 5日後、タイからメコン河を渡ってラオス入りした僕は、ひとりの日本人女性と知り合った。彼女はタイで日本語教師をしていたのだが、退職を機にラオスをふらりとまわっているとのことだった。よく日焼けして背が高く、活発そうな女性だ。タイ語とラオ語は似ているので、ラオスでのコミュニケーションに支障はなかったらしい。入国したての僕とは対象的に、彼女は南から川を上り、明日にもタイへ戻るとのことだった。

 彼女にラオスの印象を尋ねてみた。

 「タイにいるときは、ラオスは面白味のない未発達の国というイメージばかりだったし、旅行した今も何も感じないわね、何もないんだもの」

 「何も感じない」という言葉に、僕はやっぱりと思った。確かに、この国の雰囲気は僕に何のインパクトも与えなかった。それは入国したばかりだからだよ、とたしなめられるかもしれない。だが、タイでの初日、個性的な出会いが心を強く揺さぶるように、僕は大いに興奮した。でも、初対面のラオスは、街角ですれ違って、顔も覚えていない関係のようだった。

 国際保健研究会の調査旅行を担当していた僕は、この「何も感じない」という不感症状態に悩んでいた。目新しいことも興味深いことも報告できない調査など、調査でさえない。そして、僕は、無理に「報告すべきもの」を見つけだすほど、打算的でもなかった。

 困ったことになったと頭を抱えつつ、僕はメコン河を下ることにした。昼前に国境の街を出て、目的地のパクベン村に着いた時には夕方近くになっていた。学生とおぼしき日本人が思いのほか多い。彼らに尋ねると、貧乏旅行を扱う雑誌がラオス特集を組んだのがきっかけらしい。バンコクでたまに見かけた、アタッシェケースをゴロゴロ転がして歩く日本人よりは、荷物が少ないようだ。それだけ旅慣れている、ということなのだろう。

 パクベン村の船着き場は、せり出した岩山の狭間にある小さな入り江に作られている。粗末な作りなので、ここがはるか中国へと向かう通商ルートの要衝とは思えなかった。川砂で覆われた急な斜面を登りきると、子どもたちが好奇心に満ちた目で待ちかまえていた。93年に鎖国を解いたばかりのラオスだが、メコン河沿いの村々では外国人を見かけるのは珍しいことではなくなっていた。船着き場近くにある外国人向けレストランの親父は、川魚のチリソース煮を運びながら「ルアンパバンまで英会話を習いに行ったんだ」と自慢気に話しかけてきた。

 村に着いたその日から、村のインフラ設備や大まかな状況を見てまわった。電気が夕方の数時間しか使えない点を除けば、不便さを感じさせるものはない。仮に不便さを認めたとしても、絶望的な貧しさは断じて感じとれなかった。平地に住み比較的裕福なラオ・ルム族は当然として、急斜面にしがみつくような掘ったて小屋に住むラオ・モン族でさえ、貧しさを苦しみ以前の単なる日常ととらえているように見えた。豊かになることを望まない人はいないだろうが、すべての人が豊かになることを目指すわけではないんだな、そう思った。それは、とても新鮮な気付きだった。

 多くの人にとって、ラオスを旅する目的はメコン河、そして、そこに沿って散在する文化遺跡だろう。ゆったりと流れる大河を下ってみたいという興味は、「自然」が大好きな僕たち日本人にとって抵抗なく理解できる。しかし、川魚料理を結構な値段で出してくる店の親父はどうなのだろう。彼は、日々「自然を満喫」しているのだろうか?毎日、外国人を下流まで運ぶメコンの船頭たちは、「河下りを楽しみたくてはるばる来たんです」という旅行者の感覚を理解できるのだろうか?

 パクベン村に滞在した10日間、学校、雑貨店、レストラン、得体の知れない路地、畑になっている裏山など、生活のにおいがするところはたいてい歩いてまわった。パクベン村は貧しく、電気もなく、まっとうな医療施設もない。僕は、そのような貧困状況の中を「僕たちの力が必要なところはないか」と探し回った。そして、最後まで見つけることが出来なかった。独断で言い切るが、彼らは援助など必要としていない。もちろん、村の子どもたちの純真な生き様と村の貧困状況を同時に紹介して、「援助の必要性」を何となく醸し出すことは十分可能である。でも、それは偽善とは言えないまでも、欺瞞ではないか。必要性とは、当の本人が望んではじめて生じるものなのだから。

 僕は元来懐疑型の人間ではあるけれども、予想していたよりも厳しいことをメコン河は僕に教えてくれたかもしれない。それは、「どこに問題があるのか?」ではなく、「僕が何を問題にしているのか?」である。言いかえれば、裕福な僕たちが勝手に定義するところの「貧しさ」は、彼らにとっても問題なのかということである。日本で国際協力が叫ばれている。「貧しさ」が駆逐されるべきならば、僕が村で感じた「貧しさへの安住感」も駆逐されてゆくべきなのだろうか。

 もちろん、井戸に落ちそうになっている人をつい助けたくなったり、内戦で傷ついた人を見て何かしたいと感じるのは当然のことだろう。僕は、この惻隠の情にもとづく国際医療援助を心から応援したいと思う。しかし同時に、パクベン村で「何かを感じよう」、「何かを見つけよう」などというおせっかいな医療援助を展開しつつあった自分自身を恥ずかしく思いもする。

 国際協力とは、惻隠の情、簡単に言えば「思いやり」そのものなのかもしれない。そして、それは国際も国内も関係なく、人助けの常識として求められることだ。思いやりは、「住民参加型保健医療協力」といった専門用語に置き換えて表現される必要はない。メコンの人々と肩ひじ張らずに接するだけで、素直に染み込んでくる感覚なのだから。


 

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