その日こそ,涙の日

 バッハの『マタイ受難曲』は,新約聖書の記述に沿ってキリストの受難物語を描いた宗教曲である。数あるバッハの楽曲の中でも最高峰のひとつと評されるだけあって,罪・祈り・赦しの織りなす重層的な感動が,クリスチャンであるなしに関わらず聴く者を押し包む。

 僕は,マタイのほかにも宗教曲を好んで聴く。宗教曲と言うと,ふつうは非常に縁遠い存在であり,僕も友人に勧められるまでは聴くことなどなかった。その友人は2年前に亡くなったのだが,葬儀当日に体験した内的な体験が宗教曲との真の出会いであったように思う。

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 友人の葬儀が行われたのは,北九州市の小倉である。当日,駅に着いたときには時間に余裕があったので,駅前の店で暇をつぶすことにした。好きな曲を聴きながら試験の勉強でもしようと思っていたが,結局故人のことをいろいろ考えてしまった。

 故人と知り合ってからの数年間,故人は常にやわらかな物腰で僕に接してくれたが,その考え方や行動は穏やかだが大きな影響を僕に与えた。理学部に進んで霊長類を研究しようと考えていた僕が,進路を医学部に変えた大きな理由は,故人が高3の秋に入院したことである。今から見れば甘いヒューマニズムだったのかもしれないが,当時としてはそれなりに考えた上での決断だった。友人は免疫の病気だったので,そちら方面の研究が盛んな大学を探し,九州大学を志望した。

 進路のほかで影響を受けたことに,音楽がある。モーツァルト,特に『レクイエム』と交響曲41番をすすめられた。普段はもの静かな人がめずらしく強い調子ですすめるので,少し驚いた記憶がある。結局,僕はモーツァルトは好きになったが,『レクイエム』にそれほどの関心は覚えなかった。映画「アマデウス」のなかで,黒覆面の男が死者のためのミサ(レクイエム)の作曲をモーツァルトに依頼するシーンがあり,この謎めいた依頼を中心に物語が展開していく。有名なエピソードらしいが,当時の僕にとって辛気くさい名前の『レクイエム』はあまり好きになれず,たまに聴く程度だった。よく聴いたのは,交響曲41番だ。

 41番は異様である。前奏なしの総奏でいきなり曲が始まり,優雅に第2,第3楽章を駆け抜け,長く壮大なフーガで締めくくられる。流麗と言うほかない。落ち着いた曲が好みの人には,騒がしい印象すら与えるかもしれない。でも,僕には,どうしてもこの曲が悲しみにあふれているように感じられた。最終楽章に一瞬だけ現れる,天を突き抜けるようなバイオリンの独奏など,これ以上ない孤独の高みを感じさせてやまない。あふれでる音の洪水を管弦が奏でるなかにあって,そこに感じられるのは祝祭でなく孤独である。

 評論家小林秀雄は,終戦の翌年に音楽評論「モオツァルト」を発表し,その鮮烈な視点と表現は「音楽が鳴る文体」として大きな反響を呼んだ。小林は言う:

確かに,モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追ひつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂ひの様に,万葉の歌人が,その使用法をよく知つていた「かなし」という言葉のようにかなしい。

 そう,涙で代替できる悲しさではないのだ。友人が死んだとき,僕はモーツァルトを何十回と繰り返し聴いた。一度も涙は出なかった。過去の思い出が,「空の青さや海の匂ひ」と同じ位置にまで高められるとき,涙はまったく不要である。そこには,純粋のかなしみしかない。死んだ友人は,そのようなかなしみを20年間生きた人だった。

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 葬儀まで1時間となったころ,店を出て,川沿いにある会場まで歩くことにした。静かな気分に浸りたかったので人通りの少ない道を選び,めずらしく『レクイエム』を聴きながら川べりを歩いた。美しい旋律が続く曲だが,死者を送る曲としては過剰にメロディアスな印象を受ける。死を美化した美しさではなく,死と戯れる「遊び」のようなものが感じられるのだ。そこがあまり好きになれなかった理由なのだろう。実際,葬送ミサ曲としては,フォーレの『レクイエム』を第一とする人が多いそうだ。確かに,あの曲には荘厳でゆるやかで澄みきった美しさがある。

 川べりの並木は,ここ数日の木枯らしのため落葉していた。人影もまばらだ。『レクイエム』は第3曲の「怒りの日」に入った。たたきつけるような合唱とそれを後押しする力強い演奏が,あらがいがたい神の怒りをうたう。死者の魂を慰める曲とは思えないほどの理不尽な力強さだ。どうしてこの曲を僕にすすめたのか,故人の真意は分からないままだった。

 ほどなくして曲は,第7曲の「涙の日」に移る。ソプラノが「Lacrimosa dies Illa,...(その日こそ涙の日...)」とか細く歌うなか,バイオリンが半音階ずつ上っていく。天上への階段を半歩ずつ進むかのような,せつなく透き通ったこの場面こそ,モーツァルトの絶筆となった部分である。『レクイエム』を書いた時,彼はすでに死の床にあった。

 「涙の日」が終わろうとする時,僕はぞくっとした。今,その戦慄の意味をはっきりと説明することはできない。ただ,その瞬間,この曲をすすめられたわけが理解できたように思えた。何となく,『レクイエム』が真に死と向き合った曲である,そう感じたのだ。

 そのあいまいな感覚を,少しなりとも言葉で表わせるようになったのは,後に小林秀雄の評論に接してからである。小林は,上の文章に続けてこう書いた:

こんなアレグロを書いた音楽家は,モオツァルトの後にも先にもない。まるで歌声の様に,低音部のない彼の短い生涯を駈け抜ける。彼はあせつてもいないし急いでもゐない(中略)彼は悲しんではゐない。ただ,孤独なだけだ。

 モーツァルトは天才と言われた。自由で陽気な彼の人生に低音部を探すのは難しい。しかし,小林は,モーツァルトの人生を低音部はないが孤独だったと評した。実際,晩年を迎えるにつれ,彼の旋律は,軽妙な明るさを表現するばかりでなく,宗教的な深みを帯びる。キリストの生誕を落ち着いた曲調で讃えた『アベ・ヴェルム・コルプス』などはその一例と言える。孤独な天才は,気ままな振る舞いと並行して,ひとり死と真摯に向かい合っていたのではないだろうか。彼は晩年,「死の姿は恐ろしいものであるどころか,むしろ心を安らかにし,慰めてくれるものなのです」と述べている。そのような未到の境地に達した作曲家の結論として『レクイエム』がある...あの日以来,僕にはそう思えてならない。

 友人は決して陽気ではなかったが,死を意識したそぶりは見せなかった。病状が年々悪化していくなかで,淡々と日常を過ごしているように思われた。でも,僕が気付かなかっただけで,死を十分に意識し,受容してさえいたのかもしれない。亡くなる半年前に彼女は,「レクイエムを聴くと,病気もなにも素直に受け入れたい気分になる」と話していた。その時はまったく理解できなかったが,今となっては,その言葉の意味も僕に曲をすすめたわけも理解できる。あの曲が,死を真剣に意識する者にとってひとつの到達点となりえるのだということが。

 彼女の死から2回の冬が過ぎた。故人の面影が記憶から薄らいでゆくなかでも,『レクイエム』にはほとんど毎日のように接している。死者のためのミサ曲を繰り返し聴く生者の私。慰められているのは,死者の魂ではなく残された者のかなしみなのかもしれない。


 

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