地をはうものの心

マクベス『病人はどうしておる』
医者  『病気はそれほど重くありませんが,分厚い妄念に悩まされておいでで,少しもおやすみになれませぬ』
マクベス『彼女のそこを治してやってくれ。お前は病む心に何の力も貸せぬのか?記憶の底に根をはった悲しみを抜き取り,脳に刻み込まれた心痛の文字を消し去ってやれぬのか...』
医者  『そうするためには,病む者が自らに手を貸すしかございません...』
マクベス『そんな医学は,犬にでもくれてしまえ!』

(W.シェイクスピア『マクベス』)

 父親は,幼い私をよく競艇場へ連れていったものだった。競艇場はガラが悪く,赤鉛筆を耳にはさんだ男達がワンカップ酒片手に,モーターボートの爆音に負けないくらいの罵声を飛ばしている。床は紙くずとタバコの吸い殻で汚く覆われていた。

 閑話休題。今回のセミナーのグループディスカッションは「タバコ」がテーマだった。明らかに健康に害を及ぼすタバコを,どうやって減らそうかと議論した。タバコ問題はおおきく2つに分けられると思う。ひとつは,「『公衆衛生(あるいは公共の福祉)』の名目で,個人の生活行動にどこまで介入してよいか」という話,もうひとつは,「実際にどうやればタバコを吸う人を減らせるか」というアイデアの問題である。最初の話は,観念論ではなく,医師にとって死ぬまで避けることのできないテーマである。たとえば,法によってタバコを全面禁止すれば国民全体の健康増進には役立つだろうが,暴力団などによるヤミタバコが氾濫し,治安は確実に悪化する(禁酒法がよい例だ)。健康増進がすべてに優先するわけではないから,公衆衛生医師という一種の社会改善家は「社会全体における健康の位置付け」を頭にいれておくべきだろう。個人の嗜好にどこまで介入してよいかという重要な問題もある。似た話はどこにでもあるだろう。

 また,タバコを社会から減らすためのアイデアもいろいろある。自分のグループの議論では,タバコを社会的な悪とし,いかにしてそれを駆逐するかを真剣に話し合った。結論としては,「喫煙という個人のライフスタイルを社会的な圧力で変えていこう」というもので,その手段としてイメージ戦略や増税が挙げられていた。ただ,その実現方法としては,「何らかの手段でタバコ=格好悪いという雰囲気を醸成する」とか,「みんなで喫煙者をバカにする」といった抽象的な議論に留まったのは物足りなかった。その「何らかの手段で」が実際にどのようなものなのかこそが大切なのではないか。例えば,健康に悪いという理由だけでタバコ税を引き上げるよう医学界が提案しても,政府も圧力団体も説得できない。そのような横やりをどうかわすかという策を考えるのが政策立案の妙味ではないか。

 ただ,議論の重点は「いかにタバコは悪か」に置かれたので,具体論よりも観念論に流れたのはしかたないのかもしれない。タバコがいかに他人の迷惑か,いかにアホらしい自傷行為かという主張がほとんどだった。タバコを吸うような人種は一般に知性が低い,社会的マナーもなってない,そんな奴らは良くない,社会的に圧力をかけるのがよいだろう...

 その考えには一点の曇りもない。私はタバコを社会から減らしていこうとするその価値観に賛同する。しかし,その具体論を考える段階で,私は幼き日の競艇場を思い出してしまうのだ。昼間から酒をかっ食らい,他人の迷惑も考えずにスパスパとタバコを飲む「知性のない」人たちに,タバコ=格好悪いというイメージ戦略だとか,みんなで喫煙者を村八分にする社会運動だとかが通用するのだろうか(それとも,そんな人種は放っておいて,前途有為な青少年の禁煙を論じるべきだったのだろうか)。喫煙者は知性がないと主張する自分のグループの対策は,「知性の低い者は,何が自分のためになるのかを判断できない」という仮説を前提としている。しかし,わが身をかえりみても,例えば遅刻が悪いことだと分かっていてもついやってしまう。多くの人間は予定された幸福より目先の快楽を選ぶ。個人の快楽の表現であるライフスタイルを,別の個人が変えることは難しい。「誰もが病気にはなりたくないが,誰もが健康を目指しているわけではない」からである。このような考えは,当たり前なのだが,意外に忘れがちである。

 疾病構造の変化により,公衆衛生は生活習慣病や健康増進を重視するようになった。ライフスタイルの変換や健康増進は難しいと書いた直後に言うのもなんだが,私はそのような問題を,職業として直接間接に論じていきたいと考えている。あまり大きなことを言うつもりはまったくない。理念を言葉だけで語ることには限界と欺瞞があるように感じられる今,私は,社会のなかの見えにくい真実を浮かび上がらせる科学=疫学に強い関心を抱いている。

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 さて,医学生は社会的に知性ある集団であり,聖書の言葉を借りればかけがいのない「地の塩」,エリートなのだろう(少しの皮肉を込めて言えば)。対して,タバコもやめられない人や遅刻をしてしまう私自身は,地面に住まう虫のように弱い存在,まさに「地をはうもの」だ。そして,公衆衛生の相手は,それほど健康になりたいわけでもない,動機の弱い一般人である。フランス革命前夜,食糧を求める民衆のデモに王妃マリー・アントワネットは言った,「パンがないならお菓子を食べれば良いのに」。地の塩たちにより立案される健康政策ではあるが,マリー・アントワネットであってはいけない,そう思う。

 他人のライフスタイルを扱う場合に,相手の価値観をなるべく侵さない形で科学的なお手伝いをするのが,健康政策の基本的スタンスであると個人的に仮定している。もちろん,いくぶんかの政策的パターナリズムは避けられないが,それは隠し味だろう。

 公衆衛生を含め,医学は実学である。役に立ってこその科学だ。だからこそ,個人の倫理やわがままを乗り越えるしぶとさが必要だ。「健康になりたければ,民衆が自らに手を貸すしかございません」。それは正論かもしれないが,早すぎる白旗である。まさに「そんな医学は犬にでもくれてしまえ!」ではないだろうか。

 実効性のあるスタンスで公衆衛生に関わっていきたいと願う私としては,地をはうものの心を忘れないようにしたい。


 

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