健康の定義を考える

 97年の春、医学生3名で高齢者の福祉と医療を議論する会を開くことになり、僕は「健康の定義」というセッションを受け持つことになった。

 50人ぐらいの学生が九州・四国から集まり、宿や食事の手配からお酒の用意まで頭を悩ませたが、一番辛かったのは、セッションの企画そのものだった。

 なにより、ボスである土谷さん(産医大4年)が出した条件が厳しい。参加者は、医学生20人、看護学生20人、福祉学科10人の混成チームで、学年もばらばら、これらの人全員が満足するように中身を練り、さらに前後のセッション(=高齢者福祉)と連続した内容に仕上げろ、というのだ。しかも、「健康」をテーマに。

 まず、結果から言えば、このセッションは半分成功した。夕食後4時間におよぶ長丁場を終えての飲み会でも、議論は続いていた。「健康を定義する」などという絵空事に一定の結論を出すつもりは最初からなかったので、それはとりあえず成功の証だった。  しかし、このセッションが抱える本質的な問題(後述)が解決されたとは、言い難い。セッションを振り返りつつ、成果と問題をあぶり出してみる。ただ、その前に、一般的な「健康教育」の状況を描いてみよう。

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 医療関係者に「健康とは何ですか」あるいは「あなたなりに健康を定義してください」というテーマで議論した場合、議論の過程と結論は似たものとなる。

 議論はまず、「病気でない=健康」と考えるのはよくない、という確認から始まる。そして、かの有名なWHOの健康の定義 -- 身体的、精神的、社会的に完全に満足した状態を健康とする -- (注1)が引き合いに出されて、議論は岐路を迎える。

 一つの方向は、健康は全人的(ホリスティック)なものなのだから、医療現場を「病気を治す場」から「健康を増進する場」へ変革しようではないか!といささかファナチックに統一目標を確認するものであって、これはこれで結論が出た気になるのでよい。

 議論のもう一つの方向性は、悲惨である。WHOの定義はあまりに理想が高くて現実的ではない、だから現実に見合った健康の在り方を考えてみましょう...と誘導するのだが、「病気を治すこと」以上に強力な大義名分は見つからず、かと言って健康の全人的な部分にも配慮しないわけにはいかず、結局、結論が出ないままうやむやになる。これからもこの問題を考えていきましょう。パチパチ(拍手)...こんな塩梅である。

 しかし、このうやむやな結論をバカにはできない。誰が企画してもこうなるはずだ。実は、僕の個人的な興味は、このうやむやな議論をさらに押し進めて、さらに先を見てみることにあった。「あなたなりの健康の定義」を、半ば強引に導いてもらうのである。そこで、議論を倍速で進め、「結論の先」を見るべく、頭をひねった。

 企画途中の3月、僕は島根で行われた同種の集まりに参加し、数名の福祉学部の学生に会った。強大な医療と孤高の福祉の狭間で、健全な社会福祉のあり方を模索しようとする姿勢に、僕は好感を持った。

 さて、「健康の定義」セッションは、8人ずつの6つほどの班に分かれて議論してもらうことにしていたので、福祉系の学生を各班に一人ずつ配置し、議論をリードしてもらうことにした。WHOの健康定義には、身体、精神、社会の3条件が登場するが、キュアの医学生、ケアの看護学生、社会福祉の福祉系学生を3条件に見立てた(そのような3分法は無意味である、との意見が出ることは承知していたが)。

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 最初に導入として、看護の教科書から健康教育の題材:「ルイスはなぜ死んだのか?」を引用した。途上国の少年ルイスが、ささいな怪我がもとで破傷風にかかり、抗血清がある遠くの病院まで行くのだが、貧しさのため治療を受けられずに死ぬ、という状況が設定された上で、ルイスの死因を考察するグループワークである。

 題材の状況設定は詳細に練られていて、ルイスが破傷風で死んだのはなぜか?...○○だからです...では、○○なのはなぜか?...と質問を連鎖的に繰り返すことで、死の背景にある要因が明るみに出るよう工夫されている。

 結論は、貧困のため、とか、世界の社会構造のため、という社会的な要因に集中した。結果を紙に書いて身体・心理・社会の3要因に分類したところ、社会≫心理>身体の順になった。

 ただ、この方法の欠点は、社会要因に過剰に目が行ってしまう点にある。また、講師のさりげない誘導によって、参加者の思想を特定方向に向けさせることも簡単にできる。本来、現地住民に社会意識を芽生えさせるために作られた教材だから、当然なのだが。

 この導入によって、健康について議論しようとする雰囲気が作られたので、まずまず成功であった。医学生は、日常生活で「社会的健康」など考えないことが多いので、健康教育を受けた他職種の学生に近い問題意識を持つためのお膳立ては必要である。

 短い休憩ののち、参加者にWHOの定義とデュボスの健康定義(注2)を紹介した。それらの定義について一通り感想を出してもらってから、班ごとに短時間で「健康の定義」を作成するようお願いした。

 自分達で定義を作れ、という突然の設定に戸惑う参加者は多かったものの、30分ほどで何とか定義ができ上がったようだった。議論のペースを維持するため、結果を発表することはしなかったが、多くの班でデュボスの定義に近いものが出ていたようだった。

 さて、ルイス・ワークやWHOを用いた議論の結果は、構造的問題意識か抽象的な理念を導くもので、医療者個人が掲げていく健康概念を導くことは少ない。このセッションの大目標は、医療を考える際に理想論を用いることが多くの場合非効率であることを確かめることにあった。前に書いた、理念的な結論のさらに先を見る、という目的も同じ意味だ。

 理想的定義が出そろったところで、僕は最後の課題を出した:「相手の真の健康度を測れるような健康診断表(問診表)を作成してください。ただし、診断項目は10項目以内とし、今自分達が作った定義に即していなければなりません」...この課題は、多くの参加にとって衝撃だったらしい。言いたい放題で健康を議論してきたのが、いきなり実用に供する健康定義を作る必要が出来たのだ。しかも、自分の作った健康理念に縛られる形で。

 「真の健康度」など測れるわけがない事実に向かい合った上で、敢えてそれを考えねばならない状況は、現場の葛藤に近づく僕なりの試みであったし、あふれる理想論への皮肉でもあった。

 「真の健康度」を測る問診表を作る作業から得られた各班の結果は、10項目のうち半分ほどがほぼ共通していた。一番多かった項目は、「あなたは幸せと感じていますか?」という問いだ。本人の主観を重視した問いであるが、この項目が満たされたからといって即健康とは言えない、とした班がある程度あったので面白かった。幸せと健康は似ているが別物だ、としたのである。

 個人的考えでは、健康を考えるときに客観的要素を無視しないよう配慮するのは当然のように思っていた。というのも、健康教育関係の本を読む過程でしばしば見かけた「末期ガンでも場合によっては健康なことがありえる」という論調や、故・中川米造さんの「死んでも健康ということがありえる」という言葉は、少し言いすぎのように感じていたのである。反バイオメディスン的な立場を取るのが主流であるとは言え、生物としての側面を切り捨てて、個人や周囲の主観、理性、感情を重視するのは、ラジカルな脳死臓器移植容認論(=意識のない植物人間からでも...)とあまり変わらないように思えるのだ。

 話を戻す。問診表のほかの項目としては、「食事はおいしく食べられますか」とか「愛情をもって接する相手がいますか」、「家族との仲は良好ですか」、「今の仕事に不満はありませんか」などが出ていた。なお、「理学所見や生化学検査、X線検査で問題がないこと」のように、医学的所見を健康の必要条件として重く見る班がほとんどを占めたのは、1つの職種に片寄らない公平で冷静な議論ならではであろう。

 どの項目も変わり映えがしないが、作成した学生は、さきに自分達が作った抽象的で美しい健康概念を、四苦八苦して反映させようとしていた。つまり、理想的概念を現実社会の言葉で端的に置き換えるとどうなるか考えさせられたわけで、平凡な項目が、理念の表現型としての重要な質問として(少なくともその時は)感じられたようである。

 詳しい記録が手元にないので、具体例を挙げられないのが残念である。全体的な感触としては、10個の項目に身体・心理・社会の健康3要素をバランス良く盛り込むのが一番の苦労だったようだ。多くの班で、3要素の比率は2:4:4前後であったと思われる。ちょうど良いバランスではないだろうか。健康であるために心理・社会的な側面が重要であるが、身体的健康は(比率的には少なくても)ほぼ必須条件である...このような結論が多かったのではないか。

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 こうして、僕のセッションはまずまず成功裏に終わった。3職種(の卵)の混成チームでは、一人しかいない福祉系の学生が議論をリードし、看護学生が「ケア」の観点から意見を述べ、医学生は医学そのものにはほとんど言及せず、健康の心理的、社会的要素について頭をひねるところが多かった。

 理念に沿って健康診断表を作る試みは、僕自身にとっても、QOLを測定しようとする流行の企てや、国際保健分野でのさまざまな「住民健康度」パラメーター議論を考える際に、ちょっとした参考になった。

 セッション全体を通して、僕のシナリオが強く反映されて、やや強引な運営であったと思う。各班の結論に、僕の意向が反映されるような仕掛けがなかったとは言わない。

 それでも、これは健康教育ではなく、その前段階として健康への関心を引き起こすことが目的だったし、意識の高い学生は僕の意図したレベルをはるかに超えてよい議論をやっていたので、恣意的で構わなかったと割り切っている。それに、多くの参加者は、このセッションが健康議論の一つの方向に過ぎないことを感じ取ってくれたようだ(後の飲み会でそれを指摘された)。

 「本当の健康」などないという前提で本当の健康を考える企ては、無茶な面を必ず含むし、無茶ゆえに難しく、企画者の意図通りに参加者を誘導するのはたやすい。健康教育が抱える「教育者の恣意」という本質的問題は、このセッションの一応の成功によりますますあらわになってしまったようだ。


 

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