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名古屋市立大学医学部蝶ケ岳ボランティア診療所の創設
夏の蝶ケ岳ヒュッテ(2677m):この一室が蝶ヶ岳ボランティア診療所
-----唐沢岳、北穂高岳、大キレット、槍ヶ岳、北鎌尾根の展望-----
名古屋市立大学病院での出会い:
- 蝶ヶ岳ヒュッテのオーナである神谷圭子さんと私の家内が、名古屋市立大学病院の旧北二病棟(小児科病棟)の病室で挨拶した所から始まる。1997年3月、二人の母親は狭い病室に泊まり込んで、それぞれ入院中の2歳と3歳の娘を看病していた。神谷さんは、見舞いに来る私の姿からアウトドア派であることがすぐにわかったと言う。紹介されて、神谷さんが蝶ヶ岳ヒュッテのオーナであることを知った。蝶ヶ岳は、学生時代に槍穂高連峰の絵を描くために登った想い出の山である。その時デルマトグラフで描いたスケッチを出してきて、懐かしく思い出した。
- 神谷さんの話は、楽しい山の話ではなく、蝶ヶ岳山系で発生した登山者の死亡事件の想い出だった。「36歳の男性が徳合峠から大滝山荘へ向かっている途中に体調が悪くなった。」という通報を大滝山荘で小屋番をしていた酒井雄一さんが受けた。すぐに救援に駆けつけて山小屋に収容し、安静にさせて看病した。しかし初めは意識があったその登山者は、やがて昏睡状態に陥り、翌日になって心不全状態で死亡した。大滝山荘のオーナでもある神谷さんは、山に登る時には他の登山客のために救急医薬品として解熱沈痛剤程度の家庭薬程度は用意している。しかし専門的な高山病の重症度診断も治療もできない。その死亡事件を契機に、神谷圭子さんは、真剣に救急医療体制の必要性を感じて、隣の常念岳で山岳診療所を開設している信州大学医学部に応援を求めた。しかし信州大学医学部はすでに常念小屋で診療所を開設している。「一つの医学部で2カ所の山岳診療所を運営することは医師不足の現状からきわめて難しい。」として断られた。登山者の死亡事件の後蝶ヶ岳には診療所を建設する話は頓挫したままであった。神谷さんの娘さんが名古屋市立大学病院に入院を縁に、名古屋市立大学医学部の応援で蝶ヶ岳ヒュッテに夏期山岳診療所を開設したい気持ちが蘇って、私に山岳診療所の建設の話を打ち明けられた。
- 2ヶ月が過ぎた1997年6月に、私は山の畑キャンパス教養部の森山昭彦教授研究室に伺った際に、当時山岳部の学生であった榊原嘉彦氏(現在、聖路加国際病院 産婦人科医師)が屯していた。山岳診療所建設案を話題に出すと、「太田伸生教授(医動物学)が、岡山大学助教授時代に中部山岳国立公園内の三俣蓮華山荘で山岳診療所を運営に関った経験があり、名古屋市立大学にも山岳診療所のような野外研修施設を持ちたいと考えられておられる。」という情報を得た。私は即日、太田教授に山岳診療所創設案をE-mailで送ったが、海外出張で不在であった。十日ほど待つと、太田教授から返事が届き「是非とも実現させよう」と話が急に進み始めた。当時、私の直属上司の細菌学講座教授の栃久保邦夫教授にも声をかけ、初マラソンを走る会で太田教授と親交のあった黒野智恵子先生、徳留信寛教授に同志として加わって頂き総勢5人で発起人会を発足させ、私が規約を起草した。発起人会の発足から、神谷圭子さんへ連絡、そして武内俊彦名誉教授に初代診療所長に就任していただく話までが、半年のうちに急速に進んだ。
- 太田教授は名古屋市立大学医学部教授会へ活動の趣旨を説明し、教授会から名古屋市立大学医学部の名称を使う同意を得た。ただし最終責任が医学部当局にまで及ばないように、ボランティア活動としての責任範囲で活動することを明確にすることが求められた。私たちから提案した「名古屋市立大学蝶ヶ岳診療所」という名称案に「ボランティア」を付加することが要請された。さらに医学部内に限られた議論の段階であったので、他学部に配慮して「医学部」の名称を付加して「名古屋市立大学医学部蝶ヶ岳ボランティア診療班」という長い名称で活動が医学部教授会で許可された。この創設の経緯から、私たちの活動がボランティア活動として正式に誕生した。
- 参加者の主体的活動である。
- 活動内容に高い公共性がある。
- 無報酬である。
私たち診療班はいわゆる業務活動から区別されるボランティア精神の3つの柱を尊守する活動として今日に至っている。
出迎え:
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初年度(1998年)はガソリン自家発電装置、宇宙衛星電話通信アンテナ、鉄製の酸素ボンベまで人力で荷揚げしたので、結局学生らの荷物の重さが20〜30kgを越えていた。霧雨が降る中NHKの取材班2人は、β方式の報道用ビデオカメラと大型三脚などの重い機材を担いで、私たちが汗を流して登る場面を、先に走って登ってはカメラをセットして撮影していた。当時まだ医学部1年の下方征さん(現在 東京医科大学皮膚科医師)は、山頂に到着後に疲労困憊して倒れ込んで、お祝いで酒井さんが用意してくれた大ジョッキのビールを飲めず、バッファリンと水だけを飲んで目を閉じて頭痛に耐えていた。自家発電装置を運んだ医学部3年の森本高太郎さん(現在 名古屋市立大学病院コア診療ユニット 専任指導医)は、まったく疲れを見せず、武内俊彦名誉教授を途中まで出迎えに行くことになった。ただし森本さんは「武内先生とは面識がない。」と言うので小生が以下のようは似顔絵を描いて渡した。彼は武内先生一行を横尾登山道で見つけて、途中から武内先生の荷物を背負って登り返し、一行は無事蝶ヶ岳山頂に到着した。
医薬品搬送:
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設立して数年目の海の記念のこと。「脱水症状の患者が予想外に多く、輸液が足りなくなった。」との連絡を山頂から受けた。輸液の補給を名古屋市立大学から出発する学生登山班に託したのでは、2日以上遅くなる。電話で神谷圭子さんに相談を持ちかけたところ、豊科赤十字病院の笠井さんに連絡して、500ml×10本の輸液を譲り受けて直ちに三股まで搬送していただく話が決まった。その当時は、神谷さんご自身は手術後一ヶ月で、ご自宅で療養中の身であった。そこで自動車で三股登山口まで運んでいただき、山頂に滞在している学生が荷物を受け取る約束をした。神谷さんが三股登山口に到着した時には、残念ながら学生の姿は無かった。一本道なので、途中まで登って引き渡しができればよい、と考えて登り始めた。結局、神谷さんが山頂まで500ml×10本(計5kg)の輸液を担いで登ってしまった。荷物を受け取りに三股登山口まで下山する約束であった診療班学生の出発が遅れたことを反省するとともに、神谷さんが輸液を一刻も早く山頂に届けようと休まずに登った体力と熱意に敬服する。この時、豊科赤十字病院から即座に10本の輸液を無料提供してくださったことも心から感謝している。
基盤整備(無線LANネットワーク):
- 初代の診療所長の武内俊彦名誉教授は名古屋市立大学蝶ヶ岳ボランティア診療所を医療機関として機能させるには、重症患者の受け入れ先病院との地域連携体制を整えることが必須条件である旨を話されていた。確かに豊科赤十字病院(当時病院長 山本豊作先生、事務課長 笠原健市さん)、堀金村役場観光課(大竹範彦課長、ほりでー湯)、長野県豊科警察署(現在 安曇野警察署、地域課の臼田聡さん)、長野県松本保健所、長野県情報技術試験場(中村正幸さん、窪田昭真さん)らの多くの方々の連携協力のおかげで診療活動が成り立ってきたことを痛切に感じる。その中でも情報連絡網の確保は重要な意味があった。初年度は、NTTの協力で赤道上空に飛ぶ静止宇宙衛星を介した無線電話通信システムを無料提供していただいた。翌1999年には、電話通信システムを利用するにために数十万円の正規回線使用料の支払いを求められて、その経費が捻出できずに困った。しかし捨てる神があれば拾う神ありで、長野県情技術報試験場(現在 長野県工業技術センター)から、蝶ヶ岳を中継基地とする山岳救急医療無線LANの研究開発計画に協力して欲しいとの依頼を受けた。蝶ヶ岳にアンテナを立て、麓と無線LANで結び、下界でケーブルテレビ回線を経てInternetに接続する計画に協力することになった。その後TAO(Telecommunications Advancement Organization of Japan)の助成金が採択されて、「ギガビットネットワークを用いた高品位な臨床情報を伝送できる山岳緊急医療支援システムに関する研究開発」(平成14〜16年)で無線LANネットワークを充実させることができた。
- カシミール3Dというデジタル地図解析ソフトを使って国土地理院の数値地図を解析すると、理論的には蝶ヶ岳山頂は長野県工業技術センターから直視できることが予想された。しかし実際に樹木や建造物の障害により見えない可能性がある。中村正幸さんは実際に長野県工業技術センターの屋上に天体望遠鏡を置いて、肉眼で蝶ヶ岳ヒュッテを確認した上で、アンテナを正確にセットして、蝶ヶ岳と長野県工業技術センターを直接結ぶ現在の無線LANを完成させた。ここに至までの試行錯誤は順風でなく、強風でパラボラアンテナが破壊されるなど、長野県工業技術センターの皆様の努力で支障を克服して、ようやく現在のNPOによる中部山岳国立公園内の山岳救急情報無線LANの礎を築くことができた。私は「山頂の聴診器で聞いた呼吸や心臓の雑音を、診断的価値のある高品位の音として下界に転送する」要求を出した。しかし予想以上に高品位の音の転送は極めて難しい課題であった。汎用されているNetmeetingというソフトは会話の使用には耐えるけれども、「雑音」と見なされる高周波や低周波数領域は完全にカットされて聞こえない致命的な欠点があった。「雑音が消され」ては診断的情報価値のある「雑音」を転送することは不可能である。回線状況が不安定で、音の連続性が欠如すると、心雑音は不整脈と誤診される問題もあった。幅広い可聴域の周波数の雑音を、再現性よく転送するためには、クラッシック音楽の放送にも採用されている高品位の音声合成規格を採用する必要があった。その成果は、アジア大平洋医療技術国際学会IEEE EMBS Asian-Pacific Conference on Biomedical Engineering 2003で発表をさせていただくことができた。聴診音の転送難しさを克服して、実用化の近くまで達成して、論文報告できたことは、中村正幸さんの熱意と長野県工業技術センター研究員の技術力の賜物である。
Reference
Masayuki Nakamura, Yuying Yang, Shoshin Kubota, Hiroshi Shimizu, Yutaka Miura, Katsumi Wasaki, Yasunari Shidama, Masaomi Takizawa. Network system for alpine ambulance using long distance wireless LAN and CATV LAN. Jpn. J. Med. Phys. 23:30-39 (2003)
1998年8月1日 蝶ヶ岳ボランティア診療所創設 開所式の記念写真
太田伸生 下方征 城川雅光 松嶋麻子 榊原嘉彦 池原典之 森本高太郎
浅井美行 (診療所看板) 三浦裕 笹井冠奈 坂本土代 谷口裕子 梶村いちげ 辻浩子 武内(奥様)
坪井謙 山口剛 神谷圭子
(信州大代表者)川嶋和子 武内俊彦 栃久保邦夫 西尾政幸 藤村美和子 野路久仁子 石原正司
運営組織を支えてきた人々:
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川嶋和子さんは看護師として1998年のボランティア診療所開所の開設全期間にわたって、山頂で活動していただいた。「この人無しに、診療所は立ち上がらなかった」とヒュッテの酒井さんは懐古している。彼女は冬山経験もある屈強の登山家として安心して山岳診療所の仕事をお任せした。しかし山に残された心境は「山頂から準備班が下山する後ろ姿を見送りながら、心細さで涙がこぼれてしまった。」と、ご本人から後から頂いたお手紙で知った。最前列の向かって左端に見える女子学生は、開所式に常念岳から一升瓶の祝い酒を持って馳せ参じた信州大学診療所の代表者である。開所式に臨み、そのまま涼しい顔をして片道4時間の常念岳への岐路に付いた。アイソトープ研究センターや動物実験センターの職員など初マラソンを走る会の有志が開設に合わせて応援登山をして開所式に参加した。このような豪傑に囲まれて、1998年8月1日の診療所開設式で、私は伊東信行学長の祝辞を読ませていただいた。2007年8月1日の10周年記念式典では、太田伸生教授が西野仁雄理事長からの感謝状を代読して蝶ヶ岳ヒュッテの酒井雄一さんに渡した(10周年記念写真)。大滝山荘への感謝状は永田浩一さんへ渡し、神谷圭子さまへの感謝状は松本のご自宅へ郵送させて頂いた。
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早川純午先生は2006年の登山中に出会った老人が夕方になってもヒュッテに到着しないのが心配になった。様子を見に下山し、途中の妖精の池付近までその老人が登って来ているの見つけた。早川先生は酒井さんと二人で交代しながら山頂までその老人を背負って登ったという「ごま塩ひげ」逸話が伝わっている。酒井さんは赤銅色に日焼けたたくましい体の山男で、ヒュッテの従業員となって20年以上になるそうだ。「夏は蝶ヶ岳山頂で、秋は沖縄でサトウキビを苅り、冬は千葉で竹細工職人をして働いている。自然が好きだから、こんな生活をしています。」と酒井さんは語る。山岳遭難救助隊員としても登録されて、蝶ヶ岳周辺で遭難事故が発生の連絡を受けると一早く現場に急行して救助する。昨年は、常念岳手前の鞍部で動けなくなった登山者を救助するために、松嶋麻子先生(現在 大阪大学医学部附属病院高度救命救急センター)や診療所の学生班員も出動した。日没をはるかに過ぎた暗い登山道を安全に最後まで案内したのが酒井さんであった。蝶ヶ岳ボランティア診療班が成り立っているのは、初年度はまだ医学部1年生だったが、やがて学生代表として「蝶さん」「長さん」のニックネームが付いて後輩を指導した城川雅光先生(現在 東京都立広尾病院 呼吸器科医師)、薬剤や衛生材料を準備してくれた兼松孝好先生(現在 名古屋市立大学病院 コア診療ユニット主任)、エジプト海外協力隊から一時帰国して参加した間渕則文先生(現在 岐阜県立多治見病院救命救急センター長)、2年目から連続参加の浅井清文教授(分子神経生物学)をはじめ筆舌に尽くせない歴代の現場スタッフの努力に加え、山頂でおいしい料理を準備してくれるスタッフ、下界の学生組織力、病院薬剤部(当時の薬剤部長の松葉和久先生、野間秀一先生、WHOエッセンシャルドラッグ採用に尽力した矢崎蓉子先生)と河辺眞由美先生による薬剤と衛生材料管理、野路久仁子先生と黒野智恵子先生による会計管理などの地道な努力に負うところも大きい。初代診療班代表者の太田伸生教授はあらゆる事務手続きと責任を担われていた。第二代津田洋幸教授(分子毒性学)には補助金申請・受理等の組織代表をしていただいている。診療所長は初代武内俊彦名誉教授(内科学)、第二代勝屋弘忠教授(麻酔・危機管理学)、第三代森田明理教授(加齢・環境皮膚科学)と、臨床系教授に継承していただいて心強い。長野県松本保健所へ1998年の創設時に太田教授が診療所開設届けを出された。2006年1月に太田教授が東京医科歯科大学へ異動されたのを機に2月28日付けで診療所廃止届けを出し、3月1日付けで新しく私が診療所開設届けを出して現在に至っている。学生組織は1999年に学友会から課外クラブ活動として承認され、その責任者としての顧問を私が引き受けている。蝶ヶ岳ボランティア診療所は、北アルプス南部地区山岳遭難対策協議会会長(2005年11月26日 松本市長 菅谷昭)と松本警察所長(2007年3月2日 警視正 三村正悟)から感謝状を受けた。このことは本活動が社会的に認知されていることを示し、関係者の励みになっている。
10周年記念
2007年8月1日 開設10周年記念式
豊科にある安曇野赤十字病院の笠原さん、高山さん、三浦さんらが祝い酒(一升瓶2本)を担いで登って来られた。
10周年記念事業
- 蝶ヶ岳は標高2677mにある。ここが地球上でもっとも美しく星が見える標高である。ハワイ島の標高4,205mのマウナ・ケア山頂には主鏡直径8.3mの世界最大の「すばる」反射望遠鏡が設置されている。この場所に観測者が急に登ると急性高山病になるので2,800mの宿舎で2〜3日間は高所順応の滞在をしてから山頂に登る習わしになっている。不思議なことに肉眼で見える星は、4,205mの山頂よりも、2,800m地点の方が美しいという。器械観測装置では標高が高く空気が薄いほど、鮮明な星を観測できる。しかし肉眼観測では極端に空気が薄いと網膜の神経系の活動が鈍る。神経細胞の活動に十分な酸素があり、かつ空気の透明度が高い標高2,700-2,800m付近でもっとも美しい星が見える。今年は10周年記念して名古屋市立科学館の野田学博士を招いて名古屋市立大学病院3F大ホールで「宇宙の果ては?」と題して記念講演をしていただいた。
- 神谷圭子さまは、山頂ヒュッテに赤道儀付き有効径90mmの屈折天体望遠鏡(高橋製作所製SKY90)と有効径60mmのHα太陽望遠鏡(コロナド社製)を設置した。赤道儀は電源事情が悪い山岳野外環境での使用を考えて、器械操作を主体としたドイツ式赤道儀 P2-Z(高橋製作所)を選定させていただいた。この赤道儀は、私が25年前から愛用しているP2型赤道儀の後継機種である。この望遠鏡の設置によって、山頂に滞在するヒュッテ従業員、診療班員、登山客が一緒に星空を眺める新しい交流の場が生まれることを期待している。山頂に滞在する人なら誰でも、望遠鏡の操作法を習得すれば自由に使うことができる。今年の8月13日は新月で快晴というペルセウス座流星群を楽しむ最高の条件が揃った。山頂に滞在していた幸運な人々は多くの美しい流れ星に、さまざまな願いをかけたことだろう。
- 蝶ヶ岳ボランティア診療所は、一人の急性高山病患者さんの死が契機となって誕生したとも言える。そのような悲劇を二度と起こさないように努力してきたつもりだが、残念ながら2005年に大阪府の高校生が蝶ヶ岳山系で死亡する事件が発生した。死亡した高校生を連れて来た父親は登山歴30年のベテランで、蝶ヶ岳に診療所があることも知っていたようだ。父親の判断で、「下山すれば息子の調子もよくなるだろう」と考えて、診療所に相談せずに蝶ヶ岳を通過して下山を開始した。長塀尾根の標高2000m地点のでどうしても動けなくなった息子さんのためにテントを設営してビバークした。しかし夜中に息子さんは、いびきをかいているだけで揺り動かしても目覚めない昏睡状態に陥った。生命の危険を感じて父親は携帯電話で救助を求めた。夜中の林中へ徳沢側からも、蝶ヶ岳側からも捜索隊が出たが発見することができず、翌朝になって県警ヘリコプターによって上空から発見された。レスキュー隊員が到着した時には、その高校生は呼吸停止の状態だったという。状態の悪い患者は、声を出して訴える力もないことがある。親に連れられている子供の場合には、自分から弱音を吐いて、診療所を訪れることはない。今回のような悲しい事件が二度と起こさないように、学生さんに御願いして、到着する老若男女、登山客一人一人に「お疲れさま。」と挨拶をすることを御願いした。挨拶をしながら相手反応を観察して、高山病の疑いが登山者には気楽に診療所に来ていただけるように、2005年の事件直後から診療費を無料にした。患者さんから下山後の経過報告のアンケートを送って頂いている。ご丁寧なお手紙を書き添えて送って下さる患者さんも多い。温かいお手紙を読ませて頂くと、苦労が報いられる思いがする。
- 山岳診療ボランティア活動を素晴らしい学友とともに創設できたことは幸せである。私は10年前に、蝶ヶ岳・大滝分岐付近の花畑から少し登ったナナカマドの日陰にキヌガサソウ(”日本のパリ”という学名 Paris japonica または Kinugasa japonica)を見つけた感激を覚えている。今年もその花は同じ時期に、同じ場所で、同じように美しく咲いていた。自然は何も変わらないように見える。しかし当時は、まだ未熟な医学部や看護学部だった学生諸君は、既に患者さんから信頼される素晴らしい医師、看護師として立派に成長し、後輩の指導に当たっている。不変であるべきものは不変のままで、変わるべきものは確実に変わった10年間を感じさせていただいている。
キヌガサソウ Paris japonica
三浦 裕
名古屋市立大学蝶ヶ岳ボランティア診療班運営委員長
名古屋市立大学医学部分子医学研究所分子神経生物学(生体制御部門)准教授
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(Last modification, August 24, 2007)