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鈴木千春「中国古代・中世における逐月胎児説の変遷」『日本医史学雑誌』50巻4号569-589頁、2004年12月


中国古代・中世における逐月胎児説の変遷
鈴木 千春

Transition of the Doctrine from Ancient to Medieval China for
Embryo and Fetus on Each Month during Pregnancy Period
SUZUKI Chiharu


〔要旨〕今から約二二〇〇年以上前の古代中国で編纂された医書の『胎産書』には、胎児の発育イメージや妊婦養生法等の論説が妊娠の各月ごとに記されている。本稿では、これら論説が『諸病源候論』『千金方』『医心方』など中国・日本の中世医書に及ぼした影響と変遷を考察し、以下の結論を得た。

(1)『胎産書』系の内容から胎児の発育説と養胎説が後世の各書で発展していた。うち養胎説は妊婦の一般的養生法が主で、一部の方法では形象イメージや五行説も利用して述べられていた。

(2)『諸病源候論』『千金方』『医心方』では経脈と臓腑の論説が加わり、『脈経』や『素問』等の影響があった。『千金方』と『医心方』にある新たな妊婦養生法にも臓腑経脈論との関係があった。

(3)『諸病源候論』『千金方』に記された胎児の発育組織は臓腑論に対応する。これらの記述目的は、『胎産書』よりも多くの組織を胎児に備えさせるためと推定された。

キーワード―中国古代医学、『胎産書』、妊婦の養生法、臓腑経脈論の影響

  There are written some doctrines about growth image of embryo and fetus, hygiene for woman on each month during pregnancy period etc. in ancient Chinese medical book the Taichan Shu(胎産書), which compiled over 2200years ago. Following results were obtained by a study on the transition of doctrines from that of Taichan Shu to those of medieval Chinese and Japanese medical books such as the Zhubing Yuanhou Lun(諸病源候論), the Qianjin Fang(千金方)and the Ishin Po(医心方).
   (1) Doctrines about growth and hygiene on embryo and fetus had been developed on each coming book from the contents of the Taichan Shu descent. Doctrines about hygiene were mainly for pregnant woman, and some methods of them were told by using figure image and the five elements theory in the part.
   (2) There could be found additional doctrines about meridian and internal organs theory in the Zhubing Yuanhou Lun, the QianjinFang and the Ishin Po. And those additional doctrines were made under the influence of the Maijing(脈経)and the Suwen(素問). New doctrines about hygiene for pregnant woman found in the Qianjin Fang and the Ishin Po also have relationships with meridian and internal organs theory.
  (3) Growing organs of embryo and fetus described in the Zhubing Yuanhou Lun and the Qianjin Fang correspond with the internal organs theory. Purpose of those descriptions is estimated to be equipped much more organs for embryo and fetus than those of the Taichan Shu.


緒言

 紀元前の中国医書『胎産書』には、妊娠各月ごとに胎児の形や発育過程・養胎法が記されている。これらの記述は後世に受け継がれながら、様々な変化を遂げた。本稿では『胎産書』および中国隋唐代の『諸病源候論』『千金方』、さらに日本平安時代の『医心方』を主な研究資料とし、妊娠十ヶ月の記述が『胎産書』系統の内容からいかに変化し、発展したかを追っていく。これら妊娠十ヶ月に関する各種の論説を本稿では「逐月胎児説」と呼び、当説の論理背景についても考察を加えたい。

 なお本稿で前記四書を検討資料としたのは、唐代以前の医書中で妊娠の十ヶ月観が記されているからである。一方、唐代の『外台秘要方』にも逐月胎児説の記載があるが、『千金方』の引用記載につき今回の検討対象とはしない。本稿での漢字は原則としてJISコード内の常用漢字・人名用漢字を用い、これらにない漢字は正字を用いた。


一 研究資料について

 『胎産書』『諸病源候論』『千金方』『医心方』の成立年代はおおむね明らかになっており、それ以上の考究を本稿は目的としない。しかし、各書には後世の改変や所引文献の年代等の問題があるため、所載の逐月胎児説が各書の成立年代と同じであるとは速断できない。そこで各文献の逐月胎児説について検討し、各々の年代と内容の問題をまず考察する。

1 胎産書

 『胎産書』(1)は一九七一年、中国湖南省の省都・長沙の東郊外にある馬王堆の墳丘の横で、前漢時代の墓から貴婦人の遺体と共に出土した。本書はそれゆえ埋葬以降の改変が一切なく、一字一句まで当時のままといえる。この馬王堆漢墓から出土した医書の多くが現段階では中国最古で、むろん一括した逐月胎児説の記述も『胎産書』が最も古い。

 当漢墓に埋葬された婦人は、紀元前一六八年から数年以内に死亡したのが明らかにされている (2)。すると『胎産書』の成立は下限がおよそ紀元前一六五年となるが、上限年を確証させる資料は知られていない。一方、本書の逐月胎児説の一部淵源を示唆する記載があるが(3)、それらとの関連は稿を改めて考察したい。
         
 そこで『胎産書』の逐月胎児説ついても、成立は紀元前約一六五年より以前とのみ緩やかに考え、内容を後掲文献と比較考察してゆくことにする。

2 諸病源候論

 『諸病源候論』(以下『諸病』と略)は、隋の巣元方らが六一〇年に編纂した病因・病理を中心とした医書である(4)。本書巻四一の妊娠候(5)が逐月胎児説の部分で、冒頭に「経云」とあり、以下には三世紀後半の『脈経』巻九(6)と一致する文章もある。その一致状態からみて、当該部分は『脈経』の引用と判断される。他方、『脈経』の一致文でも冒頭に「経云」が冠され、その「経」とはすでに亡佚した漢以前の医書の可能性(7)があるが、具体的な特定は難しい。さらに『脈経』には後述する各月の養うべき脈が記載されるだけで、『諸病』のような逐月胎児説は存在しない。

 なお現伝の『諸病』は一〇二六年の校刊を経ており(4)、その内容がどれだけ原本に近いかは分からない。にしても逐月胎児説の記載は、以下に挙例した妊娠一月・二月における特徴的用語からも分かるように、『胎産書』系統の内容から発展していることは疑いの余地もない。

『胎産書』
 一月名曰留(流)形。食飲必精、酸羹必【熟】、毋食辛星(腥)、是謂財貞。
 二月始膏。毋食辛臊、居処必静、男子勿労、百節皆病、是胃(謂)始臧(蔵)。

『諸病』
 懐妊一月、名曰始形。飲食精熟、酸美受御、宜食大麦、无食腥辛之物、是謂才貞。…
 妊娠二月、名曰始膏。无腥辛之物、居必静処、男子勿労、百節皆痛、是謂始蔵也。…

3 千金方

 『千金方』は唐の孫思邈によって六五〇年から六五八年の間に編纂された医方書で(8)、転写を繰り返しながら後世に伝わってきた。現伝の版本には大別して、北宋政府校正医書局の林億らが一〇六六年に改訂・刊行した『備急千金要方』(以下『備急』と略)系と、林億らの改訂を経ていない南宋刊『新雕孫真人千金要方』(以下『新雕』と略)系がある。

 これら二版本の逐月胎児説を比較すると明らかに違う。一字一句の違いから始まるが、最大の違いは、『新雕』(9)には各臓腑が主る組織等と、それに対応した各月の胎児の成長が全く記されていない点である。さらに注目すべきは、『備急』の逐月胎児説(10)の前に「徐之才逐月養胎方」の見出しがある点である。

 徐之才の「逐月養胎方」は中国歴代正史等に著録されず、成立年はもとより、存在したことさえ明らかでない。徐之才の伝は『北斉書』巻三三にあり、梁に仕え二十一歳の時に赴任地で北魏軍の捕虜となった(11)、とある。ならば恐らく六世紀前半の人物であろう。また皇太后にも薬を献上するほど医術の腕をかわれ重宝されていたともあり、彼が「逐月養胎方」を説いていたとしても不思議はない。もし「逐月養胎方」が存在したなら、その成立も間違いなく当時代である。すると『備急』の逐月胎児説は、『諸病』よりも古い時代に著されたと仮定される。しかし当仮定には以下の疑問二点が生じよう。

 第一になぜ『新雕』に「徐之才逐月養胎方」の記述がないのか。第二になぜ『新雕』には臓腑が主る組織と、それに対応した胎児の発育に関する記述がないのか。以下、各疑問について簡単に検討を加えたい。

 なぜ『新雕』には「徐之才逐月養胎方」の文字がないのか。これには以下の可能性が考えられる。

 まず転写による脱字の可能性である。前述の通り、『千金方』は転写を繰り返しながら後世に伝えられてきた。当伝承過程で誤字や脱字が生じるのは当然だろう。『新雕』の底本には、本来あった「徐之才逐月養胎方」の文字が失われていたのかもしれない。

 次に林億らによる改訂・加筆の可能性である。一〇六六年に林億らによって行われた改訂は『備急』と『新雕』を比較するとよく分かるが、相当に大規模かつ激しかった。その過程で逐月胎児説の冒頭に、何かの根拠があって「徐之才逐月養胎方」の文字が加えられたのかもしれない。というのも『外台秘要方』巻三三が『千金方』等から引用する逐月胎児説の部分には「妊娠随月数服薬及将息法」の見出しがあり、冒頭に「千金妊娠一月名始胚…」(12)と『千金方』を引用するものの、当該部を含めて逐月胎児説の内容全体に「徐之才逐月云々」の字句は見当たらない。つまり『千金方』には本来、「徐之才云々」の文字がなかった可能性がある。以上からすると、徐之才の「逐月養胎方」は本来存在しなかった可能性がいささか高いように思われる。

 なぜ『備急』にある臓腑が主る組織等と、それに対応した胎児の成長に関する記述が『新雕』にはないのか。

 まず想起されるのは林億らが改訂の際に、何かの根拠があって書き加えた可能性だろう。一般論として中国では書物の伝承過程で一部が欠落することがあっても、個々の記述が削除されることは普通なく、どちらかというと加筆されることが多い。それは後述する逐月胎児説の後世における変遷も同じで、時代を経るにしたがって加筆にともなう変化が増している。しかも『諸病』には『備急』とほとんど相違ない当該の記述がある一方、北宋政府が編纂して九九二年に初刊した『太平聖恵方』(以下『太平』と略)全一〇〇巻における逐月胎児説の部分(13)にはない。このような厖大な医学全書に記述がないことを考えるなら、後の一〇二六年と一〇六六年に改訂・刊行された『諸病』と『千金方』に共通する当該記述は、各々の改訂時に加筆された可能性も示唆されよう。

 以上を要するに、徐之才の「逐月養胎方」はかつての存在を確証できず、仮にあったとしても『備急』の逐月胎児説そのものだった可能性は低いと推定された。ならば各々の逐月胎児説は『備急』や『諸病』のそれより、宋代の改訂がない『新雕』のそれが古いと推知される。以上の考察に基づき以下の検討を進めるが、『千金方』については万全を期すため『備急』『新雕』の双方を資料に使用したい。

 以下に『備急』『新雕』の逐月胎児説から妊娠一月・二月文の一部を挙げてみた。両者には些細な相違があるものの『千金方』の別伝本同士ゆえ、やはり同系にあることが前掲『胎産書』文との比較から了解できよう。そして両者の記載は用語の特徴からしても、『胎産書』系統の内容から発展していることは明らかである。

『備急』
 妊娠一月、名始胚。飲食精熟、酸美受御、宜食大麦、無食腥辛、是謂才正。…
 妊娠二月、名始膏。無食辛臊、居必静処、男子勿労。百節皆痛、是為胎始結。…

『新雕』
 (妊娠一月の記載を欠く)
 妊娠二月、名始膏。無食辛、居必静処、男子勿労、百節皆痛、是為始蔵。…

4 医心方

 平安時代九八四年に丹波康頼が撰進した『医心方』は、二〇〇以上の文献による引用文から構成され、所引文献のほとんどは中国唐以前のものである(14)。それら文献には佚書が多く、本書の逐月胎児説(15)も佚書『産経』から引用されている。

 『産経』の書名は中国・日本に著録があり、巻数の相違から二種あったことがわかる。一つは『隋書』経籍志子部五行にある「産経一巻」(16)、もう一つは『日本国見在書目録』にある「産経十二、徳貞常撰、産経図三」(17)である。岡西は『医心方』所引の『産経』を『隋書』経籍志の「産経一巻」だとするが、理由を述べていない(18)。これに対し馬は『日本国見在書目録』の『産経』だとし(19)、根拠に『医心方』二五巻六一葉ウラにある「此是徳家秘方不伝。出産経」の記載をあげる。この「徳家」は『日本国見在書目録』著録の「徳貞常撰」と合致するので、馬説はまず間違いない。本稿では以下、『医心方』所引の当『産経』を『産経』と表記する。

 他方、馬は『産経』がさらに『葛氏方』を引くことから、『産経』の成立を晋代以後南北朝時期(三一六~五八一)とするが、理由を記さない。『産経』の成立上限が、葛洪(二六一~三四一)の原著に由来する『葛氏方』以降であるのは当然だが、下限を南北朝期と推定するのはいささか根拠薄弱に思える。『日本国見在書目録』(八九一~九七頃)が当書を最初に著録することから、その成立下限は唐代まで下げていいかもしれない。

 ともあれ『医心方』所引の『千金方』が北宋改訂以前の旧態を留めている(20)ことを勘案すると、『産経』の逐月胎児説も北宋に改訂された『備急』や『諸病』のそれより、個々の記載に古態を保存していることは問題ない。以下に『産経』の逐月胎児説より妊娠一月・二月の一部を挙げるが、『胎産書』系統の内容から発展した文章であるのは一目瞭然だろう。

 懐身一月、名曰始形。飲食必熟酸美、無御大夫、無食辛腥、是謂始載貞也。…
 懐身二月、名曰始膏。無食辛臊、居必静処、男子勿労、百節骨間皆病、是謂始蔵也。…

5 小結

以上の四書について考察した結果は次のようにまとめられる。

(1)紀元前約一六五年より以前の中国で著された『胎産書』に見える逐月胎児説の内容は、唐代までの『諸病』『千金方』『産経』に伝承されていた。

(2)『産経』および『新雕』の逐月胎児説は、『備急』『諸病』のそれより個々の記載に古態を保存していると考えられた。


二 『胎産書』系の養胎説

 逐月胎児説には、『胎産書』系統の内容に基づき後の三書で増加・変化・発展していると考えられる部分と、『胎産書』系統にない内容が別の系統から援用され発展したと考えられる部分がある。前者はさらに胎児の発育説と、妊娠中の禁忌事項や修身法を述べた養胎説の二つに大別できる。前者発育説の根幹たる『胎産書』の記載には、前述のごとく淵源ないし関連を示唆する文献記載がある(3)。しかし、その考察は多端にわたるため別報に割愛し、ここでは養胎説についてのみ検討を加え、変遷の背景を考察してみたい。

 後世の三書で内容が『胎産書』からさらに増加していった養胎の記述は、各月ごとに多様であるが、多くは思想背景等があまり窺えない一般的養胎と判断される。例えば「食飲必精、酸羹必熟」「毋食辛臊、居処必静」など、妊婦に栄養をとらせ、安静にさせる等である。また「無静処、出遊於野」など、安定期に運動するなど現在も一般的な養胎がある。しかし一般的養胎とは異なる増加を示す特徴的な記述もあった。それが三ヶ月目である。

 検討した全文献に、三ヶ月目の胎児はまだ定まった形がなく、外の影響を受け変化する等の記述がある。そのためか当月には生まれる子供への願望の記述が多い。それらを各文献から抜粋・整理すると次のようになる。

 ①男子がほしい、②女子がほしい、③器量のいい子がほしい、④智恵と力のある子がほしい、⑤賢く徳のある子がほしい。しかし、これらが全書に共通しているわけではない。以下の表1に各書の記述をまとめてみた。

                表1産児への願望
 当表より、『胎産書』では男子か女子かの願望のみだったのが、のち容姿や人格にまで拡大していることが理解できる。これらの記述が『新雕』のみ皆無なのは相当に不自然で、当該部分が脱落してしまった可能性を推定するしかない。

 さて①②③の願望に基づく具体的養胎法は各書で多少違うが、全て形象イメージによる養胎方である。すなわち男子がほしければ、男らしい弓矢等を身近に置いたり、猛々しい虎等を見たりする。女子がほしければ、女らしい耳飾等を身に付ける。器量のいい子がほしければ、美しいものを見たり食べたりするのである。

 それに対し④⑤の養胎法は少し違う。④には「智恵と力」のある子がほしければ、「牛心」、また「大麦」を食べるとある。牛は力があるので形象イメージとも考えられるが、心臓や麦は智恵とも力とも直接結びつかない。一方、後漢の一世紀ころに原形が編纂された『素問』の六節臓象論には「心者生之本、神之変也」(21)とあり、心臓が精神機能を果たす器官として当時認識されていたことがわかる。また麦は『素問』等の五行説で、心臓と同じ火に配当されることが多い。つまり同じ火に属する心臓と麦を共に食べることで、智恵のある子が生まれると想定したのだろう。ならば④は、形象イメージと五行説が混ざり合っていると考えられる。

 ⑤には「徳」のある子がほしければ心を正しくし、我欲をなくせ、とある。これは恐らく正しい行いが徳につながる、ということであろう。しかし①②③に比べ、明瞭に形象イメージからとは言い切れない。これは④の「智恵と力」にも言えるが、①②③と④⑤の違いはなんであろうか。
      
 まず①②③だが、いずれも目に見える願望と言えよう。そのため願望も具体的事物に例えやすい。これに対し④⑤の願望は性格や素質等で目に見えないため、直截な形象イメージに置き換えることも難しく、上記の養胎法が説かれたと考えられる。

 以上を要するに、『胎産書』系の内容から発展した後世の養胎説は、思想背景等の少ない一般的養生が主といえる。ただし妊娠三ヶ月目では、産児の内面的事象など願望の多様化に対応し、形象イメージや五行説を援用した養胎法も説かれていた。


三 中世の逐月胎児説

 前述のように、『諸病』『千金方』『産経』に記された逐月胎児説の原形は、『胎産書』系統の内容だった。しかし一方で、後世の各書には『胎産書』に記述のない内容も存在する。これら新出の内容には、妊娠各月に対応した経脈説、胎児の発育説、養胎法の三分野がある。ついては各々の分野ごとに後世各書の記述を比較し、それらに影響を与えた思想背景、さらに各書における所説の伝承関係も考察したい。

1 経脈説

 経脈とは宇宙生命の根源たる「気」が人体に流れるルートで、『素問』以降では三陰三陽および六臓六腑に配当された十二経脈を主とし、針灸を行う部位の経穴(ツボ)も後世は経脈上にあるとされる。本逐月胎児説では妊娠の各月に養われる一脈ずつがあげられ、その経脈には灸も針もしてはならず、この禁忌を破れば胎児を傷つけるおそれがあるという。さらにこれら経脈には各々の対応臓腑が記され、以上の記述は各書ほぼ共通している。

 他方、『脈経』にも同様の記述を見ることができる。『脈経』は脈診を中心とした医書で、今からおよそ一七〇〇年前に西晋の王叔和によって著された(22)。『諸病』はもちろん、『千金方』『産経』が成立する以前の書である。

 妊娠各月に養われる経脈は、『脈経』平妊娠胎動血分水分吐下腹痛証(6)の冒頭に以下のように記されている。

婦人懐胎、一月之時、足厥陰脈養。二月、足小陽脈養。三月、手心手脈養。四月、手小陽脈養。五月、足太陰脈養。六月、足陽明脈養。七月、手太陰脈養。八月、手陽明脈養。九月、足少陰脈養。十月、足太陽脈養。諸陰陽各養三十日活児。手太陽少陰不養者、下主月水、上為乳汁、活児養母。懐妊者、不可灸刺其経、必堕胎。

 以上の条文で各月に養われる経脈は『諸病』『備急』『産経』と合致するが、『胎産書』に始まる臓腑や胎児の成長・養胎等の記述が全くない。逆に『脈経』には以上の条文に続き、妊娠や胎児の男女、各月の胎児の状態を脈診で判断する方法がある。これらは『脈経』が『胎産書』とは全く別の系統から発展してきたことを示す。

 なお脈診による妊娠の診断は『脈経』以前にも文献記載がある。『素問』の陰陽別論に「陰搏陽別、謂之有子」(23)、平人気象論に「婦人手少陰脈動甚者、姙子也」(24)とあり、いずれも妊娠有無の脈診である。また後漢二三〇年頃の張仲景医書に由来する『金匱要略』(25)の婦人妊娠病脈証并治には、「婦人懐娠六七月、脈弦発熱、其胎愈張、腹痛悪寒者、少腹如扇。所以然者、子蔵開故也」(26)と妊娠中の脈診が記され、これらは吉岡も指摘する(27)。すると脈診で妊娠を判断する『脈経』の記載は、『素問』や『金匱要略』の発想の延長にあるとみていいだろう。

 では『脈経』と『諸病』『千金方』『産経』の経脈さらに脈診の記載は、どのような関係にあるのだろうか。前述したが、『脈経』(6)と一致する内容が『諸病』(5)にあり、冒頭には脈診による妊娠、胎児の性別の判断についての記述もある。それらは順次の違いやいくつかの記述が抜けるなど、全てが一致しているわけではないが、ほぼ『脈経』からの引用とみて間違いない。さらに『新雕』(28)『備急』(29)にもこれらの記述がある。他方、『医心方』所引の『産経』では判然としないが、『医心方』は所引文献から脈論を排除して引用する傾向がある(30)。つまり本来は『産経』に存在した脈論の記述を、『医心方』が引用しなかった可能性もあろう。ちなみに経脈説はこの時代すでに臓腑説と結びついていたので、これら脈論に臓腑説が加わっていることもなんら不思議はない。

 以上から、『胎産書』以降の各書は『脈経』の影響も受け、変化・発展していったことがわかる。ただし主たる経脈は十二本ある。その十二経脈をどのようにして妊娠の十ヶ月に当てはめたのであろうか。この理解には、十二経脈と臓腑・五行の関係をいささか述べねばならない。

 十二経脈はもともと陰と陽各々を三分して三陰三陽とし、臓腑説と結び付けることから生まれた(31)。しかし十二では五行説の五臓(肝・心・脾・肺・腎)五腑(胆・小腸・胃・大腸・膀胱)とうまく対応しない。そのため新たに心包という臓と三焦という腑を加えて六臓六腑とし、三陰三陽に対応させた。さらに六臓六腑を五行と対応させるため、火を君火と相火の二種にわけた。そして心・小腸を君火に、新たに加わった心包・三焦を相火に当てはめたのである。

 ちなみに『胎産書』とともに馬王堆から出土した『十一脈灸経』には、書名の通り経脈が十一本しかない。抜けているのは心包の脈で、当時点では五臓六腑説だったらしい。つまり『十一脈灸経』が著された時代、経脈と臓腑の理論は発展途上だった。『胎産書』に経脈の記述がないのは、当書が『十一脈灸経』とは別系、あるいはより古い成立だった可能性を示唆しよう。

 そこで『脈経』の影響で各書に加わった脈論、とりわけ前掲した各月に養われる経脈と五行説の関係を考えてみたい。まず妊娠各月を①~⑩で示し、各経脈の五行配当を順に記すとこうなる。①木、②木、③火、④火、⑤土、⑥土、⑦金、⑧金、⑨水、⑩水(ただし十ヶ月は『産経』のみに記述がある)。うち③④は君火である。つまり十二経脈では君火と相火があるので、逐月胎児説では相火の二種を除いて十経脈とし、十ヶ月の数にあわせたのである。さらに妊娠各月に養われる十経脈の五行順次は相生説(木生火、火生土、土生金、金生水、水生木)に合致し、杉立もこの点を指摘する(32)

 すなわち『胎産書』とは別系から発展した『脈経』の脈論が、後世三書の逐月胎児説に導入されていた。そこに記された妊娠の十ヶ月に養われる十経脈は、六臓六腑説に対応した十二経脈説と五行説の解釈から生まれていたことが理解された。

2 胎児の発育説

 先にも述べたが、経脈とそれに対応した胎児の発育説は、全書に同じ記載があるわけではない。経脈の相違では、『産経』にのみ十ヶ月目に足太陽脈(膀胱経)が記される。しかし発育については各書でかなり違い、『新雕』『産経』には記述すらない。そこで『諸病』『備急』に基づき発育説を考察することにする。

 まず各月の発育記載を比べてみよう。その比較を表2に示したが、各右行に妊娠各月に養われる経脈・対応臓腑とその主る組織、左行に胎児の発育を記した。

               表2 各月の発育説
 当表のように『諸病』と『備急』の記載に大きな違いはなく、各臓腑が主る組織に対応して胎児も発育している。ここに記した経脈の順次が五行相生説に合致することはすでに指摘した。

 ところが当表の各左行に示した胎児の発育には五行説との関連がみえない。この発育記載にはいかなる背景があるのだろうか。関連記載は『素問』陰陽応象大論(33)・宣明五気篇(34)・痿論篇(35)に臓腑とその主る人体組織の条文が見出され、要点を整理すると次のようになる。なおマル数字は逐月胎児説で対応する妊娠の幾月を示すが、三ヶ月目は心包につき対応していない。
                          
①肝主筋、肝主身之筋膜、肝主目、肝主筋

③心主脈、心主身之血脈、心主舌、心生血

⑤脾主肉、脾主身之肌肉、脾主口、脾生肉

⑦肺主皮、肺主身之皮毛、肺主鼻、肺生皮毛

⑨腎主骨、腎主見之骨髄、腎主耳、腎生骨髄

 以上を表2と比べると、①の肝と⑦の肺に共通内容がある。⑤の脾に共通点はないが、五行で脾と同じ土の胃に共通点がある。すると表2にまとめた胎児の成長は、これら『素問』系の臓腑説に基づくらしい。他方、『胎産書』系には一定の発育記述があるため、同じ記述を用いることを後世の文献は避けた。しかも妊娠十ヶ月目までに人間としての形質全てを胎児に備えさせたかった。ために『素問』系の臓腑説に基づき出来上がったのが、『諸病』『備急』に記された胎児の発育経過ではなかろうか。なぜなら両書にある胎児の発育記述を総合すると、全ての組織・形態を備えた人間になるからである。

 すなわち『胎産書』にはないが、後世の『諸病』『備急』にある胎児の発育説は、『素問』系の臓腑説に由来する可能性が考えられた。

3 養胎法

 『胎産書』にない新タイプの養胎法があるのは『新雕』『備急』『産経』で、『諸病』にはない。すでに明らかになったように、『胎産書』以降の発展には『素問』『脈経』などの臓腑経脈説の影響が背景の一部にある。新タイプの養胎法も、『素問』などの記載と何らかの関係があるのだろうか。以下の表3に『新雕』『備急』『産経』より妊娠各月に記される臓腑と、各月の養胎法を整理した。
表3 各月の養胎法

 当表を見るなら、これら養胎法には感情や飲食・生活環境の禁忌が多いことに気づく。一方、感情や飲食・生活環境と五臓・組織が関連する記載を『素問』に見ることができる。『素問』陰陽応象大論にこうある(36)

怒傷肝、悲勝怒。風傷筋、燥勝風。酸傷筋、辛勝酸。…喜傷心、恐勝喜。熱傷気、寒勝熱。苦傷気、鹹勝苦。…思傷脾、怒勝思。湿傷肉、風勝湿。甘傷肉、酸勝甘。…憂傷肺、喜勝憂。熱傷皮毛、寒勝熱。辛傷皮毛、苦勝辛。…恐傷腎、思勝恐。寒傷血、燥勝寒。鹹傷血、甘勝鹹。
  同書経脈別論にもこうある(37)

飲食飽甚、汗出於胃。驚而奪精、汗出於心。持重遠行、汗出於腎。疾走恐懼、汗出於肝。揺体労苦、汗出於脾。
  表3の養胎法とこれら『素問』の記載に一部の共通点はあるが、特徴的語彙の合致もなく、それらが『素問』の直接引用とは考えられない。ただし一部の共通から、『素問』系の臓腑説が後世三書の養胎法に影響した可能性は推定できる。

4 各書における所説の伝承関係
表4 各書逐月胎児説の内容分布
 最後にこれら逐月胎児説がどの書においてどのように伝承され、また変化と発展が加わっていったかを検討したい。これまで『胎産書』に記述のない新タイプの逐月胎児説を考察してきたが、それらは次の①~④に整理できる。

①各月に養われる経脈
②臓腑関連の養胎(表3)
③臓腑が主る組織等(表2)
④胎児の発育(表2)

 以上に⑤として『胎産書』以来の三ヶ月目の養胎の発展(表1)を加え、各文献における記述の有無を○×で表4に示した。なお③の『産経』『太平』にある△は一ヶ月目にしか当該記述がないことを示す。

 当表から各文献記載の伝承と発展の関係がおぼろげながら見えてくる。すなわち『胎産書』にはない①の各月に養われる経脈の記述が、『素問』系の臓腑経脈説からまず誕生した。前述のように、現存文献で最も古い当内容は『脈経』にあった。さらに『脈経』から発展し、『諸病』以外の全てに②臓腑と関係する養胎説が誕生する。当時点の文献は『新雕』『産経』にあたるだろう。その一方で『諸病』には②説がなく、③臓腑が主る組織等と④胎児の発育記述が登場した。これは前述のごとく『素問』系の臓腑経脈論の発展と考えられる。そして③④⑤の全てが付加された現伝の『備急』となる。

 これらの伝承・発展関係を以下に図示する。なお『新雕』は妊娠一ヶ月目の記述を欠くため、『産経』と同じ場所においた。

5 小結

 以上の考察をまとめると次のようになる。

(1)『胎産書』とは別系から発展した『脈経』の脈論が、後世の『諸病』『千金方』『産経』の逐月胎児説に導入され、妊娠十ヶ月に養われる十経脈は『素問』以来の六臓六腑説に対応する十二経脈説と五行説の解釈から生まれていた。

(2)『胎産書』にないが『諸病』『備急』にある胎児の発育説・養胎説は、『素問』系の臓腑説に由来する可能性が考えられた。

(3)各文献記載における逐月胎児説の伝承と発展の関係は左掲図に模式化される。


四 結論

 本稿では『胎産書』『諸病』『千金方』および『医心方』所引『産経』の記載を相互に検討し、逐月胎児説の変化と発展を考察した。それらは以下に整理できる。

(1)紀元前二世紀以前の『胎産書』には逐月胎児説が記され、その系統の説は後世の『諸病』『千金方』『産経』に伝承され、発展していた。

(2)『胎産書』系の内容からは後世、胎児の発育説と妊娠中の禁忌・修身の養胎説が発展していた。うち養胎説は一般的養生が主だが、一部には形象イメージや五行説を援用した方法が説かれている。

(3)『諸病』『千金方』『産経』で新出の脈論は、『胎産書』と別系の『脈経』から導入され発展していた。その妊娠十ヶ月に養われる十経脈は、『素問』以来の六臓六腑説に対応する十二経脈説と五行説の解釈から作成されている。

(4)『諸病』『備急』で新出の胎児発育説・養胎説は、『素問』系の臓腑説に由来する可能性が考えられる。これらは『胎産書』の記述に加え、人間に必要な組織を備えさせるためだったらしい。

(5)各書における逐月胎児説の伝承と発展の大略を模式化すると、およそ上掲図となる。


謝辞 当拙論の作成にあたり、ご指導いただいた真柳誠茨城大学教授に深謝申し上げる。


参考文献と注

(1)『馬王堆漢墓帛書(肆)』一三六頁、文物出版社、北京、一九八五年

(2)何介鈞・張維明『馬王堆漢墓』一〇頁、文物出版社、北京、一九八二年

(3)『管子』四時気や『淮南子』精神訓などに、『胎産書』の逐月胎児説の一部内容と関連する記載が見出される。

(4)小曽戸洋「『諸病源候論』の書誌について」『東洋医学善本叢書八』二六九~二九八頁、東洋医学研究会、大阪、一九八一年

(5)巣元方『諸病源候論(東洋医学善本叢書六)』一九四・一九五頁、東洋医学研究会影印南宋版、大阪、一九八一年

(6)王叔和『脈経(東洋医学善本叢書七)』平妊娠分別男女将産諸証第一、巻九第一葉ウラ~二葉オモテ、東洋医学研究会影印何大任仿宋版、大阪、一九八一年

(7)小曽戸(「『脈経』総説」『東洋医学善本叢書八』三九三頁、東洋医学研究会、大阪、一九八一年)は、当該部分が既に亡佚した漢以前の医書からの引用ではないか、と推測する。

(8)小曽戸洋『中国医学古典と日本』四四〇頁、塙書房、東京、一九九六年

(9)孫思邈『新雕孫真人千金要方』巻二第一〇葉オモテ~一四葉オモテ、東京・静嘉堂文庫所蔵南宋版のマイクロフィルム焼き付けによる。

(10)孫思邈『備急千金要方』二一~二四頁、人民衛生出版社影印江戸医学館仿宋版、北京、一九八二年

(11)李百薬『北斉書』四四四~四四八頁、中華書局、北京、一九七二年

(12)王燾『外台秘要方(東洋医学善本叢書五)』巻三三第一〇葉ウラ、東洋医学研究会影印南宋版、大阪、一九八一年

(13)『太平聖恵方(東洋医学善本叢書二〇)』巻七六第一葉ウラ~第三オモテ、オリエント出版影印南宋版、大阪、一九九一年

(14)上掲文献(8)、五三三頁

(15)丹波康頼『医心方』巻二二第二葉オモテ~一三葉オモテ、人民衛生出版社影印安政版、北京、一九九三年

(16)魏徴ら『隋書』一〇三七頁、中華書局、北京、一九七三年

(17)藤原佐世『日本国見在書目録』八二頁、名著刊行会、東京、一九九六年

(18)岡西為人『宋以前医籍考』一〇七七頁、古亭書局、台北、一九六九年

(19)馬継興『中医文献学』二一九頁、上海科学技術出版社、上海、一九九〇年

(20)上掲文献(8)、五三二頁

(21)『素問・霊枢』、『素問』巻三第七葉ウラ、日本経絡学会影印仿宋版、東京、一九九二年

(22)上掲文献(8)、三一四頁

(23)上掲文献(21)、『素問』巻二第一六葉オモテ

(24)上掲文献(21)、『素問』巻五第一一葉ウラ

(25)張仲景『金匱要略』一九八~二〇〇頁、燎原書店影印元版、東京、一九八八年

(26)上掲文献(25) 、一三二頁

(27)吉岡広記「唐以前における妊娠の認識について」『日本医史学雑誌』四九巻一号七八~七九頁、二〇〇三年

(28)上掲文献(9) 婦人有胎候悪阻方第二、巻二第八葉オモテ

(29)上掲文献(10) 妊娠悪阻第二、一九・二〇頁

(30)上掲文献(8)、五四三頁

(31)小曽戸洋『漢方の歴史―中国・日本の伝統医学』二六・二七頁、大修館書店、東京、一九九九年

(32)杉立義一『医心方の伝来』一八四頁、思文閣出版、京都、一九九一年

(33)上掲文献(21)、『素問』巻二第四葉オモテ~六葉ウラ

(34)上掲文献(21)、『素問』巻七第一一葉オモテ

(35)上掲文献(21)、『素問』巻一二第八葉ウラ

(36)上掲文献(21)、『素問』巻二第四葉ウラ~六葉ウラ

(37)上掲文献(21)、『素問』巻七第一葉ウラ
(霞ヶ浦町立志士庫小学校)