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2006年度人文学科卒業研究
「蒲団」の研究-漢語の「蒲団」と寝具の「蒲団」-
森岡貴志(01L1108N、中国文化専攻、指導教員:真柳誠)
緒言
日本の文献に初めて「蒲団」という語句があらわれたのは、平安時代前期とされている[1]。この「蒲団」は草で編まれた円型の座具を指し、現代において私
たちの言う寝具の「蒲団」とは異なるものを指していた。その後、鎌倉時代に日本に持ち込まれた漢語の「蒲団」は禅宗の座禅用座具を指す言葉であり、「蒲
団」が寝具を指す言葉として文献上に現われたのは安土桃山時代のことであった[2]。ここで、座具の「蒲団」と寝具の「蒲団」には大きな違いがあると筆者
は考えた。第一にその寸法である。前者はお尻の下に敷く程度の寸法であるが、後者は人間の背丈程度の大きさがなければ寝具の機能を果たせないであろう。第
二にその形態である。前者は円型であるが、現代の一般的な「蒲団」は方型である。加えて第三に、それぞれの用途である。
「蒲団」は座具として日本にもたらされたが、現代の日本において「蒲団」が寝具を指す言葉であるのは周知の事実である。小川光暘氏も著書の中で、「禅座
の用具であった蒲団と、江戸時代このかた寝具として一般に使われてきた蒲団とは、同じ字で呼ばれるには余りにも違いが大きすぎる。寝具のフトンには、布団
の字をあてておく方がまだしも穏当ではなかろうか[3]」と述べている。また、郡千寿子氏も自身の調査より「寝具としての呼称『フトン』の場合は『布団』
でも誤りでなく、かえって意味を担った表記であるといえないであろうか[4]」と言っている。両氏とも「布団」という語句を引き合いに出しつつ、「蒲団」
が指す意味の変化の大きさについて私見を述べている。しかし、両氏ともに大きな違いを認めつつも、日本国内では時代を経るにつれて、「蒲団」という言葉の
指す対象が、座具から寝具に変わっていったと考える立場は崩していない。そこで本稿では、「蒲団」は日本独自に座具を指す言葉から寝具を指す言葉へと変化
したのか、あるいはその変化に中国の影響があったのかについて考察していく。日本国内に限定された「蒲団」の先行研究に、「蒲団」の伝来元である中国の資
料調査を交えて考察していく。なお本稿では以下のように凡例を定める。人物の敬称は省略した。日本・中国の年号は一律に西暦で表した。本稿で使用する漢字
は、固有名詞も含めて常用漢字・人名用漢字を用いた。常用漢字・人名漢字にない漢字は、俗字・異体字は正字に直し、同字はそのままにした。また、寝具を指
す「蒲団」「布団」はフトンのように片仮名で表記した。ただし寝具を指す場合でも漢字表記が必要な場合は漢字表記を残し、寝具を指すかどうかが曖昧な場合
は原文の表記をそのまま載せた。
第1章 「蒲団」に関する先行研究
1.日本における「蒲団」という言葉の出現
「フトン」という読音は別にして、漢語の「蒲団」は平安時代には日本へ輸入されていた。『日本語大辞典』第2版は「わろうだ[5]」の項目に以下の出典を載せる。
天理本『金剛般若経集験記』平安初期の傍記(850頃)
却き蒲団(ワラフタ)に倚りゐて彌よ励む[5]。
上記の引用部分より、平安時代当時に漢語の「蒲団」は「ワラフタ」と訓じられていたと分かる。「ワラフタ」の訓は、平安時代における漢語の「円座」にあ
てられた訓と同じであった[6]。平安時代において、漢語の「蒲団」は座具を指す言葉として日本人に理解されていたのである。
次に「蒲団」の漢字表記が見える資料は、鎌倉時代における道元[7](1200-1253)の『正法眼蔵』[8]とされている。
『正法眼蔵』第11 坐禅儀
坐禅の時は袈裟をかくべし、蒲団をしくべし、蒲団は全跏にしくにはあらず、跏跌の半ばよりはうしろにしく。しかあれば、累足の下は坐蓐にあたれり、背骨の下には、蒲団にてあるなり、これ仏々祖々の坐禅のとき坐する法なり[9]。
当文において漢語の「蒲団」は、禅僧が座禅の際に、お尻の下にあてがう小さい円型の座具を指す言葉として紹介されている[10]。
2.日本における「蒲団」という寝具の出現
日本で「蒲団」が寝具を指す言葉として文献の中に初めて登場するのは、安土桃山時代の『多聞院日記』[11]とされている。
『多聞院日記』天正12(1592)年3月28日
廿八日…夜寒之由申間、フトンヲ遣了…[12]。
ただし当時は「蒲団」という言葉が指す対象に座具と寝具の両方が見られる。その後、1600年代の終わり頃に、「蒲団」は元来の座具を指す言葉から、寝具を指す言葉へと完全に変わったのである[13]。
以上を要約すると、漢語の「蒲団」は、平安時代に第一次輸入として日本にもたらされた。この「蒲団」は草で編まれた円型の座具として認識され「ワラフ
タ」と訓じられていた。第二次輸入は禅僧が座禅の際に用いる円型の座具を指す言葉として鎌倉時代に中国から日本に持ち込まれた。そして安土桃山時代以降、
本来の座具の意味は薄れ、1600年代の終わり頃に「蒲団」は寝具を指す言葉として一般的になった。ただ、本章で述べた先行研究は日本の文献資料をもとに
しており、中国の文献資料は吟味されていない。つまり日本において「蒲団」が座具を指す言葉から、寝具を指す言葉に変わった史実は確かに存在したが、そこ
に「蒲団」という言葉の輸入元である中国の影響があったかどうかは検討されていないのである。そこで次章からは、中国の文献をもとに、中国において「蒲
団」が何を指す言葉であったのをか考察し、中国の「蒲団」と日本の「蒲団」が指すモノに迫っていく。
第2章 現代中国語における「蒲団」
まず、「蒲団」という語句が、現代の中国においてどのように理解されているかについて調べるため、『大漢和辞典』[14]『中日大辞典』[15]、および『中日辞典』[16]の記載を要約して以下の表にまとめた。
大漢和辞典 | 蒲団 ホダン・フトン 1.僧侶が座禅、又は跪拜する時に用いるがまで作ったしきもの。 2.しとね。被衾。布団。寝具。又座布団。 |
中日大字典 | 蒲団 pu2tuan2[17] ・僧侶が座禅、あるいは法事の時、座るのに用いる蒲、または麦わらで編んだ円座。ふとん。 |
中日辞典 | 蒲団 pu2tuan2[17] ・(僧侶が用いる)ガマの葉または麦わらで編んだやや大型の座布団、円座。日本の蒲団は鋪蓋 pu2gai、被褥 bei4ru4などと言う。 |
表より三書における「蒲団」の解釈は二つに分けることができる。
① 僧侶が座禅の際などに使う座具
② 現在私たちが使っている寝具
①の意味は、日本の鎌倉時代にあらわれた座具としての「蒲団」に重なると考えられる。他方②の意味だが、『中日辞典』に「日本の『蒲団(ふとん)』は鋪
蓋、被褥などと言う[18]」とあるように、中国語の「蒲団」に寝具の意味があるかどうかは疑わしい。また『大漢和辞典』には「2.しとね。被衾。布団。
寝具。又座布団」の説明以外、フトンとしての出典および引用例が記されていない[14]。『大漢和辞典』は『佩文韻府』(1720)や『古今図書集成』
(1725)など多くの清代の類書、韻書を参考にしているが、出典および引用例がないため、漢語の「蒲団」に寝具としての意味がないのではないかと推量で
きるだろう。さらに『中日大辞典』にも寝具としての「蒲団」の意味を用いた例文が記載されていないことから、中国語において「蒲団」に寝具の意味はないと
思われる。
以上のごとく、現代の中国語辞典、および『大漢和辞典』の「蒲団」には座具・寝具の両方の意味で記載があった。ただし『大漢和辞典』に寝具としての「蒲
団」の出典はなく、『中日辞典』にもフトンを表す中国語は「鋪蓋、被褥」だと記載がある。よって過去から現代にいたるまでの中国において「蒲団」は座具を
指す言葉だった可能性が高い。しかしながら、本章ではその確証を得るまでには至らなかった。次章より中国の文献に見られる「蒲団」を考察していくことで、
中国の「蒲団」は何を指す言葉であったかを明らかにしていきたい。
第3章 中国の文献に見られる「蒲団」―宋代以前―
第1章で述べたように、「蒲団」の第一次輸入は平安時代においてであり、天理大学所蔵の『金剛般若経集験記』中に見える漢語の「蒲団」である。この『金
剛般若経集験記』は唐の孟献忠が撰した『金剛般若経集験記』[19](716)の写本である[20]。ゆえに中国では中唐の頃に、「蒲団」という漢語が存
在していたと考えてよいだろう。では当時の中国において「蒲団」は何を指す言葉だったのだろうか。本章は中国の文献中に見られる「蒲団」について具体的に
見ていくことにする。
なお、調査に当たっては、『四庫全書(電子版)』[21]及びインターネットサイトの寒泉[22]を使用し、「蒲団(團)」を含む文字列を検索した。
第1節 唐詩に見られる「蒲団」
調査の結果、唐代より前の文献に「蒲団」を含む文字列は見当たらなかった。よって「蒲団」という漢語の初出年代は唐代と考えられる。では唐代において
「蒲団」は何を指す言葉だったのだろうか。インターネットサイトの寒泉より、『全唐詩』[23]の中に「蒲団」を含む詩を15首見いだすことができた。そ
のうち比較的早い時期のものに、中唐の詩人である顧况(727頃-820)の詩があった。まずはその詩を見ていくことにしよう。
顧况「宿湖辺山寺」
群峰過雨澗淙淙 松下扉扄白鶴双
香透経窓籠桧栢 雲生梵宇[24]湿旛幢
蒲団僧定風過席 葦岸漁歌月堕江
誰悟此生同寂滅 老禅慧力[25]得心降[26][27]
この詩が読まれた時代を特定するのは難しいが、第8句に「老」の文字が見えることから顧况の晩年に読まれた可能性が高い[28]。また第5句に「僧」の
文字が見え、第8句には「禅」の文字が見えることから、禅宗[29]の影響も感じさせる詩である。盛唐の時期には北宋禅[30]が全盛期を迎えており
[30]、王維(700-761)や杜甫(712-770)の作品の中にも禅宗に関する詩句がある[31]。また禅宗が中国の庶民生活にとけ込んでいった
のが9世紀以降[32]だということを考え合わせれば、ここでの「禅」は禅宗と考えてよいだろう。
一方、「定」は『大漢和辞典』に、仏教用語として「坐禅観法をおさめ、寂静三昧、即ち無念無想の域にたどりつくこと[33]」と説明されている。「禅」
の文字を同様に『大漢和辞典』でひくと、仏教用語として「しずか。禅那(Jhyna)の略。定・静慮・思惟修と訳す。心が専心静虚を保って云々[34]」
とある。また「禅定」の項には「結跏趺坐[35]して欲情を断ち、心を静め三昧[36]の境地に入ること。座禅[37]」と記されている。さらに「禅定」
は大乗仏教において大切な修行方法の一つであった史実を考え合わせれば[38]、第5句の「定」は仏教用語だと言える。よって以上の検討より「蒲団僧定」
は僧侶が座禅を組み、蒲団の上で心を落ち着かせている情景だということができる。また、顧况が詠んだ別の詩にも「蒲団」の記載がある。
顧况 宿山中僧
不爇香炉烟 蒲団座如鉄
嘗想同夜禅 風堕松木雪[39][40]
第4句に「雪」の文字が見られることから、季節は冬であろう。また第2句に「蒲団座すること鉄の如し」とある。冬なので蒲団が鉄のように冷たかったので
あろうか、それとも鉄のように硬かったのであろうか。どちらにしても、ここで言う「蒲団」は座具を指す漢語であったことが分かる。また第3句には「禅」文
字が見え、第2句の「座」と合わせて考えると、この詩が僧の座禅風景を詠ったのは明らかである。
すなわち中唐に存在した「蒲団」は、禅宗の座具を指す漢語として使われていた用例が明らかとなった。
第2節 孟献忠『金剛般若経集験記』の「蒲団」
前節では中唐期の「蒲団」が座具を指す漢語だった旨を述べた。では、顧况の詩よりも早くに著された孟献忠『金剛般若経集験記』(716)の「蒲団」は、
何を指すのであろうか。孟献忠の頃よりやや時代は下るが、晩唐の詩人である許渾(791-854頃)の詩に以下の記載がある。
許渾 晨別翛然上人
呉僧誦経罷 敗衲倚蒲団 鐘韻花猶斂 楼陰月向残
晴山開殿響 秋水捲簾寒 独恨孤舟去 千灘復万灘[41]
この詩文中には「倚蒲団」とあり、座具である「蒲団」に対して「倚(寄りかかる)」の動詞を用いている。また同じく晩唐の詩人である張喬[42]の作品にも「倚蒲団」の記載がある。
張喬 寄山僧
間倚蒲団向日眠 不能帰老岳雲辺
旧時僧侶無人在 惟有長松見少年[43]
ここでは「倚蒲団」に続いて「向日眠」とあり、「蒲団」は寝具であるかのようにも見える。しかし「倚蒲団」の前に「間(少しの間)」とあるため、ここで
も座具の「蒲団」に「少し寄りかかって居眠りをする」程度の意味であると考えられる。ゆえに上記の二作品は、「倚蒲団」という表現で、座具である「蒲団」
に寄りかかった僧の様子を詠っているのである。
ここで孟献忠『金剛般若経集験記』の写本である天理本『金剛般若経集験記』平安初期の傍記を思い出して欲しい。そこには「蒲団(ワラフタ)に倚りゐて」
とあり、前述の2作品と表現が共通していることがわかる。従って孟献忠『金剛般若経集験記』の「蒲団」は僧が用いる座具を指す漢語と考えてよい。
本節の検討では「定」や「座」の動詞に加えて「倚」も「蒲団」を用いるときの動詞だったことが分かった。よって孟献忠『金剛般若経集験記』の「蒲団」
は、座具の「蒲団」を指す漢語だといえる。従って天理本『金剛般若経集験記』平安初期の傍記の「蒲団」は、座具の意味を伴った「蒲団」という漢語の輸入で
あったといえる。また、当時の日本では漢語の「蒲団」に「円座」と同じ「ワラフタ」の訓をあてていた。ゆえに平安時代の日本においては漢語の「蒲団」が座
具を指す言葉として正確に理解されていた用例も合わせて明らかになった。
第3節 『正法眼蔵』における「蒲団」の読音
前節では、孟献忠『金剛般若経集験記』および天理本『金剛般若経集験記』平安初期の傍記における「蒲団」が座具を指す言葉だった旨を述べた。しかし天理
本『金剛般若経集験記』平安初期の傍記における「蒲団」には「ワラフタ」の訓があてられ、「フトン」と音読されることはなかった。では日本において漢語の
「蒲団」に読音の「フトン」が伴うのはいつ頃からなのだろうか。先行研究によると、漢語の「蒲団」に「フトン」の読音が付された記載は室町時代の文献から
見えるとされている[44]。しかし、第1章で述べたように、鎌倉時代には座禅用の座具を指す言葉として漢語の「蒲団」が日本に輸入された事実がある。こ
の「蒲団」も平安時代と同様に「ワラフタ」と訓じられたのだろうか。本節では鎌倉時代における「蒲団」の読音を明らかにするべく、『正法眼蔵』の「蒲団」
を材料として考察を進めていく。
『日本国語大辞典』第2版には、「『フ』、『トン』はそれぞれ『蒲』『団』の唐宋音[45]」とある。座禅によって悟りを開こうとする禅宗が本格的に日
本に伝わったのは、鎌倉時代初期[46]とされる。鎌倉時代初期は中国の南宋(960-1279)時代にあたり、禅宗と共に輸入された座具を意味する漢語
の「蒲団」が「フトン」と音読されたとしても不思議はない。さらに道元は宋に渡って禅を修めており[47]、帰国後の彼が「蒲団」を宋音で「フトン」と音
読した可能性は非常に高い。
では、道元が渡った宋代の中国において、漢語の「蒲団」は禅宗との関わりを持っていたのだろうか。『四庫全書(電子版)』[21]で検索したところ、宋代
の類書『古今合璧事類備要』(1257年より以前に成立)[48]において、釈教[49]門の禅法項に「蒲団」の記載があった。
『古今合璧事類備要』前集 巻48 釈教門 禅法
禅版[50]蒲団 龍牙禅師[51]問翠微…。又問臨済、如何是祖師[52]意。臨済曰、与我過蒲団来師過蒲団。臨済接得蒲団便打。伝灯録。[53]
釈教門の禅法項における記載のため、禅宗と「蒲団」の関わりを示す資料と考えられるが、末尾に「伝灯録」とあり上記引用部分には出典もとがある可能性が
高い。当資料が禅宗と「蒲団」の関係を表すものだと言い切るには「伝灯録」なる文献を調べる必要があるだろう。では「伝灯録」とは何を指すのだろうか。そ
れは永安道原[54]の『景徳伝灯録』[55](1004)[56]を指すと考えられる。『景徳伝灯録』には以下のような記載がある。
『景徳伝灯録』巻17 湖南龍牙山居遁禅師
師在翠微時問…。又問臨済、如何是祖師意。臨済曰、与我将蒲団来師、乃過蒲団、臨済接得便打。[57]
当文より『古今合璧事類備要』の「禅版蒲団」項は『景徳伝灯録』を参考としていることがわかる。よって宋代における漢語の「蒲団」は禅宗と関わりのあった
ものだと言えよう。また、『景徳伝灯録』巻17は洞山門派についての記録である。この門派は後に曹洞宗と呼ばれることから[58]、帰国後に曹洞宗を開く
道元[59]に「蒲団」との接点があったことは想像に難くない。
では道元が日本へ持ち帰った漢語の「蒲団」は、宋代において座具を指す言葉として使われていたのだろうか。慧洪(1071-1128)の『林間録』[60]に以下の記載がある。
『林間録』巻上 釈家[61]類
杭州興教小寿禅師…。寿推蒲団籍[62]地而坐語。[63]
訓読:寿、蒲団を推すめ地に籍き、而して坐り語る。
当文より宋代における漢語の「蒲団」は、座具を指す言葉だったことがわかった。
以上の検討より、『正法眼蔵』の「蒲団」は「フトン」の読音を伴っていた可能性が高く、かつ座具を指す言葉として日本に輸入されたと考えられるのである。
小結:
中国において漢語の「蒲団」は中唐の頃より文献上に現れ、それは禅宗の座禅用座具を指す言葉であった。よって孟忠献『金剛般若経集験記』中に登場する漢
語の「蒲団」も座具を指す言葉であると判明した。その結果、孟忠献『金剛般若経集験記』の写本である天理本『金剛般若経集験記』平安初期の傍記における
「蒲団」は座具の意味を持った言葉として日本に輸入された証拠だと言える。加えて「ワラフタ」と訓じられた天理本『金剛般若経集験記』平安初期の傍記にお
ける「蒲団」は、座具を指す言葉として日本人に理解されていた用例も明らかになった。
また宋代における漢語の「蒲団」も禅宗の座具を指す言葉として用いられていたことが分かった。「フトン」という読音が唐宋音であり、道元が宋代の中国で
禅を修めた史実を考え合わせると、『正法眼蔵』における「蒲団」は、座具の意味だけでなく読音の「フトン」もともなって輸入された言葉であると可能性を見
いだせた。以上本章では平安・鎌倉時代の日本において中国から輸入された漢語の「蒲団」と、唐・宋代におけるの中国の「蒲団」との関係について述べた。
第4章 中国の文献に見られる「蒲団」 -明代-
前章では唐代・宋代における中国の「蒲団」と平安・鎌倉時代に日本に輸入された漢語の「蒲団」は、両国において座具を指す言葉だった旨を述べた。さて鎌
倉時代に日本に輸入された漢語の「蒲団」は、第1章で述べたように、その後1600年代の終わり頃に寝具を指す言葉へと変わった史実がある。他方中国では
「蒲団」という言葉が指す対象に変化はあったのだろうか。中国において漢語の「蒲団」が寝具を指す言葉へと変わっていたならば、日本もその影響を受けた可
能性がある。しかし「蒲団」が座具を指す言葉のまま変化がなかったのであれば、「蒲団」は日本において独自に座具を指す言葉から寝具を指す言葉へと変化し
たと言えるだろう。第1節でも述べたが、日本で「蒲団」が寝具を指す言葉として文献上に現れるのは安土・桃山時代(1573-1603)以降である。よっ
て本章では明代(1368-1644)の文献をもとに、中国において「蒲団」という言葉の指す対象が座具から寝具へ変化したかどうかについて検証してい
く。
なお、調査にあたっては、データベースの『四庫全書』[21]を用いて「蒲団(團)」を含む文字列を検索した。
第1節 『遵生八牋』『考槃余事』『長物志』三書の「蒲団」
調査の結果、高濂[64]の『遵生八牋』[65](成立年未詳。初刊は1591年)、屠隆[66](1542-1605)の『考槃余事』[67]、そし
て文震亨[68](1585-1645)の『長物志』[69](1621)にそれぞれ「蒲団」の記載があった。明代末期の上記三書のうち、成立年が早いと
思われる『遵生八牋』の「蒲団」についてまず考察していく。
1.『遵生八牋』の「蒲団」
『遵生八牋』の「蒲墩[70]」の項目中には以下の記載がある。
『遵生八牋』巻8 起居[71]安楽牋 怡養[72]用事具
蒲墩 以蒲草為之,高一尺二寸[73],四面編束細密,且甚堅実。内用木車[74]坐板,以柱托頂,久坐不壊。蒲団大経[75]三尺[76]者,席地快甚。呉[77]中置者、精妙、可用。[78]
現代語訳:蒲墩。蒲草で作り、高さは40cm。四面を細かく編み束ね、非常に丈夫である。内側は木車の座板で柱を作り、座面をのせる。長持ちする。蒲団で、直径100㎝のものは,地面に敷くと非常に座り心地がよい。浙江省呉興県の蒲団は優れており使うべきである。
上記引用部分より、「蒲墩」は座具であり、「蒲団」も座具の一つとして「蒲墩」の項目に含まれていることが分かった。また「蒲団」が採録されている「怡
養用事具」には、寝具として「蒲花褥[79]」の記載があり、「蒲」を材料とした寝具は、「蒲団」とは異なる漢語で存在していたことも分かった。また『遵
生八牋』の「坐氈[80]」項にも「蒲団」が載っている。
『遵生八牋』巻8 起居安楽牋 下巻 游具[81]
坐氈 花時席地,毎用鹿皮為之,人各一張,奈何毛脱不久,以蒲団棕団[82]、坐之甚佳。余[83]意夾青氈一条。臨水傍花処,展地共坐[84],更便巻舒携帯耳。[85]
現代語訳:坐氈 花が咲く時期に地面に敷き、すべて鹿の毛皮で作る。各人が一枚ずつ持つが、毛が抜けてしまうと長くは使えない。「蒲団」や「棕団」の上
に敷くと座り心地がよい。私は毛で織った青色の敷物を(尻と蒲団や棕団の間に)挟む。花の咲く水辺に行き、地面に広げて恭しく座る。更に簡単に巻き延ば
せ、持ち運びできる。
当記載より「坐氈」項でも「蒲団」は座具として扱われていることが分かった。また「蒲団」以外にも「棕団」の記載があり、「蒲」だけでなく「棕」も材料と
して用いられていたようである。さらに「蒲墩」「坐氈」両項において、「蒲団」は座り心地のよい座具として紹介されていた。どのようにすれば「蒲」や
「棕」の葉を材料にすわり心地のよい座具を作り出せるのかは分からないが、そこには当時の中国人の工夫があったのだろう。
以上の検討より『遵生八牋』に見られる漢語の「蒲団」は座具であった。
2.『考槃余事』『長物志』の「蒲団」
『考槃余事』『長物志』は「蒲団」を「坐団」の項目に採録し、「蒲墩」は「坐墩」(図1)の項で紹介している。
『考槃余事』巻4 起居器服箋
坐団 有蒲団大径三尺[76]者,席地甚快。呉中製者,精妙可用。棕団亦佳。或以青氈為。団中印白梅一枝雅。称趺坐山椒[87]玩月,以雄黄[88]熬
蝋,作蝋布団[89]。坐之可遠湿[90]辟虫蟻。[91]
現代語訳:坐団 直径100cmの蒲団は、地面に敷くと非常に座り心地が良い。浙江省呉興県で作られる蒲団は非常に優れており、用いるべきである。棕団
もよく、青い毛織物で作ることもある。坐団の中心には白梅の一枝が施されており雅である。山頂にあぐらをかいて座ることを誉めたたえ、月を愛でる際には、
雄黄で蝋を焦がし、蝋布団を作る。これは、除湿や防虫の効果がある。
図1 木製坐墩[86]

『長物志』巻7 器具
坐団 蒲団,大径三尺者,席地甚快。棕団亦佳。山中欲遠湿辟虫,以雄黄熬蝋,作蝋布団,亦雅。[92]
現代語訳: 直径100㎝の蒲団は、地面に敷くと座り心地がよい。棕団もまたよいものである。山中での除湿と防虫のために、雄黄で蝋を焦がし、蝋蒲団を作る。また雅である。
『考槃余事』巻4 起居器服箋
坐墩 冬月用蒲草為之,高一尺二寸,四面縞束細密,且甚堅実。内用木車坐板,以柱托頂,久坐不壊。暑月可置藤墩,如画上者佳。[93]
『長物志』巻7 器具
坐墩 冬月用蒲草為之,高一尺二寸,四面編束細密,堅実。内用木車坐板,以柱托頂,外用錦飾。暑月可置藤墩。宮中有繍墩,形如小鼓,四角垂流蘇者,亦精雅可用。[94]
上記引用部分より、『考槃余事』『長物志』は「蒲団」を座具として紹介しつつも、「蒲墩」とは明確に区別していることが分かる。また「坐団」項に「蒲
団」だけでなく「棕団」や「蝋布団」が載っていることから、漢字の「団」がある種の「座具」を指すキーワードだったと考えられる。『大漢和辞典』をひく
と、「団」には「丸い・丸める・かたまり」などの意味がある[95]。加えて「蒲団」の「蒲で作ったしきもの」という意味を考え合わせると、「団」は
「墩」とは異なり、地面または床に敷いて用いる丸い座具だったと考えられるのである。また明代の中国画に、禅宗の僧が何かで編まれた座具に座っている様子
が描かれている(図2)。図2に見える座具は「坐墩」とは明らかに異なるものであり、大きさも『遵生八牋』『考槃余事』『長物志』の三書における「蒲団」
の大きさに近い。確証はないが、筆者は図2に描かれる座具が、漢字の「団」をキーワードとした座具の類ではないかと考える。
図2 明代の中国画に描かれた座禅風景[96]
明代末期の『遵生八牋』には、「蒲団」は「座具」という大きな括りで「蒲墩」項に採録されていた。しかし『考槃余事』や『長物志』は、形状や使用法方から「蒲団」を「蒲墩」と区別し、「坐団」という種の座具として採録したのである。
以上より、明代末期の『遵生八牋』『考槃余事』『長物志』の三書における「蒲団」は採録されている項目は違うものの、地面に敷いて用いる座具を指す言葉だったことが分かった。
第2節 木綿の普及と「蒲団」
前節では『遵生八牋』『考槃余事』『長物志』の三書における「蒲団」が座具を指す言葉だったことを述べた。ただ前節の考察をもって「明代の『蒲団』は座
具を指す言葉だった」と包括的な考えを述べるのは早計であろう。そこで本節は、日本において寝具のフトンが普及する大きな要因となった木綿の視点から、明
代の「蒲団」に迫っていく。木綿の普及とともに、日本では「蒲団」が徐々に寝具を指す言葉へと変わっていったが、中国では同様の変化はなかったのであろう
か。
日本において寝具の「蒲団」が広まった背景には、木綿栽培の普及があるとされている[97]。フトンには中綿だけでなく、中綿を包む外側の布地にも木綿
が必要である。よって木綿栽培が日本全国に普及したことで寝具のフトンが作られるようになったと考えるのは無理のない考え方であろう。実際に日本の木綿は
室町時代(1392‐1573)末期に中国からもたらされた木綿の種が、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて定着したものであった[98]。日本におい
てフトンが文献上に現れるのは安土桃山時代以降であるから、木綿栽培とフトンの普及はおおいに関係していると考えてよいだろう。
他方、中国においても木綿栽培と寝具の普及は密接な関係があったと考えられる。中国で木綿が栽培されるようになったのは南宋の1125-62年頃であり
[99]、明末には、全国的に木綿が栽培されるようになっていた[100]。その明代において、木綿を寝具の材料として使った資料があるので紹介する。ま
ず『遵生八牋』の「隠嚢[101]」項には以下の記載があった。
『遵生八牋』巻8 起居安楽牋 隠嚢項
隠嚢 ・・・高一尺許,内以綿花装実縫完,傍繫二帯以作提手。榻[102]上睡起以両肘倚墩小坐,似覚安逸,・・・。[103]
現代語訳:隠嚢 …高さは30cmほどで、内側を綿花で満たして、しっかりと口を縫い合わせ、帯を2本縫い付けて手提げとする。寝台の上で、目覚めた後に隠嚢に両肘からもたれかかると、安らかな気分になり・・・。
ここでいう「隠嚢」は寝台の上で用いるクッションのごときものと考えてよいだろう。寝台の上で木綿の詰まった「隠嚢」にもたれかかると気持ちがよいのは、想像に難くない。
また、『古今図書集成』(1725)の「木綿」部に採録されている、張七沢[104](1556-1635)の『梧潯雑佩』[105]には以下の記載がある。
『梧潯雑佩』
木綿。…旧云、海南蛮人(今の海南島付近の人々。)織為布、名曰吉貝[106]。今、第以充裀褥[107]取其軟、而温、未有治[108]。以為布者潯梧間、亦多有之。但土人、未嘗採取随風飄墜而已。[109]
現代語訳:木綿 ・・・古くは海南の人々が布を織る材料としたもので、名を吉貝という。現在は裀褥にいっぱいに詰め、その軟らかさと温かさを利用する。
現在でも栽培は盛んでない。潯州と梧府の間にも木綿で布を織る人が多い。ただし、土地の人間は木綿の収穫は行わず、風に吹かれて落ちた綿を使うのみであ
る。
当書でも木綿が「裀褥」という日本語の「敷きブトン」にあたる寝具の中綿として使われているのが分かる。
以上より明代の中国においても、木綿は寝具に何がしかの影響を与えていたと言うことができよう。しかし、中国において木綿が影響を与えたのは、あくまで
も「隠嚢」や「裀褥」などの中国寝具に対してであり、座具の「蒲団」に対してではなかったと考えられる。ゆえに中国において、木綿の普及により漢語の「蒲
団」が座具を指す言葉から寝具を指す言葉へと変わる史実はなかったと言えよう。
第3節 「蒲団」と「布団」
前節では、明代の中国おいて木綿が大きく影響及ぼしたのはあくまでも寝具であり、座具を指す漢語の「蒲団」が「寝具」を指す言葉へと変わることは変化は
なかった旨を述べた。しかし本章第1節で述べた「布団」という漢語の登場は木綿の普及が座具に少なからず影響を及ぼした証拠であろう。そこで本節では本論
から少しずれるが「布団」という言葉について考えていく。本稿では、すでに「蒲団」は中国から輸入された言葉だと述べたが、「布団」も「蒲団」同様に輸入
された言葉なのだろうか。
日本では江戸時代の後期(1800)頃から「布団」という言葉が文献上に現われ始める[110]。加えて当時の「布団」は「フトン」と音読され、寝具を
指す言葉だったことも先行研究より明らかとなっている[110]。明代の末期頃(1600)に中国で「布団」という漢語が使われていた事実から考えると、
「布団」は中国から輸入された漢語の可能性もあると言えるだろう。ただ「布団」が中国から輸入された言葉だったならば、「布団」を座具として記載している
日本の文献があってしかるべきである。ところが実際には「布団」という言葉が現れ始める日本において、「布団」は寝具を指す言葉であった。また漢語の「布
団」が日本に輸入される際に、日本において「蒲団」がすでに寝具を指す言葉として使われており、そこに「布団」という漢語が中国から輸入され、「布団」が
「蒲団」と同じように寝具を指す言葉として使われ始めたとも考えられる。しかし漢語の「布団」が日本に輸入された時代に、「蒲団」が寝具を指す言葉として
定着していたならば、なおさら座具を指す漢語の「布団」は寝具を指す「蒲団」とは区別して輸入されたと考えるべきである。本節では資料が足らず断定は出来
ないが、中国の「布団」と日本の「布団」は、それぞれ独自に誕生した言葉と考えるべきではないだろうか。
小結:
日本において寝具のフトンを広める原因となった木綿は、中国においても寝具に何らかの影響を与えていたと考えられる。しかしそれは中国寝具への影響であ
り、座具の「蒲団」が寝具へと変わるような影響は及ぼさなかったと考えられ、明代の「蒲団」は座具を指す言葉だったことが明らかとなった。ゆえに鎌倉時代
に日本に輸入された漢語の「蒲団」は、日本独自に座具を指す言葉から寝具を指す言葉へと変わったと言えるだろう。ただし一つ頭に止めておかなければならな
いのは、明代に座具を指す「布団」という漢語が存在したことである。日本の「布団」と中国の「布団」はそれぞれ国で独自生まれた言葉だと考えられる。しか
し両国とも木綿が普及した後に「布団」という言葉が現れた点を考えると、「布」が大衆的なものとなった後に誕生した点では、共通しているかもしれない。
第5章 「肉蒲団」という漢語の伝来
前章では、明代における中国の「蒲団」は座具を指す漢語だったことを述べた。そして、日本において「蒲団」は、日本独自に座具から寝具を指す言葉へと変
化したことも検証した。では、寝具を指す言葉として定着した日本語の「蒲団」と、座具を指す漢語の「蒲団」の関係はどうなっていくのだろうか。
『逆引き広辞苑』によると、「蒲団」の文字列を含む語句の中に「肉蒲団」を挙げている[111]。「肉蒲団」を『日本国語大辞典』でひくと、「一、同衾
する女性を蒲団に見なしていう語。転じて女性の肉体。二、清代の小説[112]」と記載がある。中国小説の『肉蒲団』[113](1654)は、江戸時代
(1705)に日本で刊行されており[112]、筆者はこの小説『肉蒲団』が、寝具の意味が定着した日本語の「蒲団」に、なにがしかの影響を与えたのでは
ないかと考えた。そこで本節では漢語の「肉蒲団」と、寝具の意味が定着した日本語の「蒲団」の関係について考察していく。なお本章中における『肉蒲団』
は、特別な付記が無い限り中国小説の『肉蒲団』を指すものとする。
第1節 小説『肉蒲団』における「肉蒲団」の意味
「肉蒲団」を『大漢和辞典』でひくと、「一、同衾する女性の賤称。二、清代の小説[114]」とある。ただし「一、同衾する女性の賤称」の意味での出典
は無い。『中国語大辞典』には方言として「隆起したごつごつの筋肉[115]」とあるが、『中日大辞典』[116]や『中日辞典』[117]に「肉蒲団」
という語句はなかった。では、小説『肉蒲団』中の「肉蒲団」は何を指す言葉として使われているのだろうか。
1.小説『肉蒲団』中の「蒲団」
小説『肉蒲団』中の「肉蒲団」を見る前に、同小説中の「蒲団」について述べておく。インターネットサイトの「零度空間BBS精華区」[118]が載せる
『肉蒲団』[119]を検索したところ、同小説の本文において、4箇所で「蒲団」の記載があった[120]。
『肉蒲団』巻1 第2回「老頭陀空張皮布袋 小居士受坐肉蒲団」
①孤峯和尚[121]が朝のお勤めで、「蒲団」の上で座禅を組んでいる場面:和尚清晨起来,掃了門前落葉,換了仏前浄水,装香已畢,放下蒲団,就在中堂打坐[122]。[123]
②朝のお勤めを終えて座具の「蒲団」から立ち上がる孤峯和尚に向かって、未央生が四度深くお辞儀をする場面:和尚起先在入定之時不便回礼,待完了工課方才走下蒲団,也深深回了四拝。[124]
『肉蒲団』巻4 第20回「布袋皮寬色鬼奸雄斉摂入 旃檀路闊冤家債主任相逢」
③孤峯和尚が蒲団から立ち上がり、未中央の手を取って話しかける場面:孤峰走下蒲団,一把挽住道…。[125]
④未中央と権老実[126]が奇遇な巡り合わせに驚き、同時に蒲団から立ち上がる場面:未央生大驚道,這等説来,你就是権老実了!和尚[127]道,莫非你就是未央生麼?頑石[128]道,正是。両個一斉走下蒲団,…。[129]
以上4箇所の「蒲団」はすべて座具を指す言葉であった。
2.小説『肉蒲団』中の「肉蒲団」
インターネットサイトの「零度空間BBS精華区」[118]が載せる『肉蒲団』[119]を検索したところ、同小説中の本文において4箇所で「肉蒲団」の記載があった。
①『肉蒲団』巻1 第2回「老頭陀空張皮布袋 小居士受坐肉蒲団」
説得を頑として受け入れない未央生に対して、孤峯和尚があきれて言う場面:居士請自待娶了佳人之後、従肉蒲団上参悟[130]出来、方得実際。[131]
現代語訳:どうぞよい妻を娶ってから、肉蒲団の上で実際を知って悟ってくだされ。[132]
上記『肉蒲団』の「第2回」は同小説の冒頭部分であり[133]、引用した部分は主人公の未央生が孤峯和尚に色欲を絶って修行にはいるよう諭されている
部分である。孤峯和尚の必死の説得にもかかわらず、「未央生」は自らに見合うだけの女性を見つけるまでは修行に入れないの一点張り。そこで、孤峯和尚が未
央生に上記の苦言を呈する結果となる。実際なら座具の「蒲団」の上で禅の悟りを開くところを、「肉蒲団」の上で情欲の虚しさを悟れと洒落を交えて皮肉って
いるのである。この部分の「肉蒲団」とは情欲の対象である「同衾する女性、またはその肉体」に他ならない。
②『肉蒲団』巻1 第2回「老頭陀空張皮布袋 小居士受坐肉蒲団」
別れ際に孤峯和尚が未央生へ詠んだ漢詩:請拋皮布袋 去坐肉蒲団 須及生時悔 休嗟已蓋棺[131]
現代語訳:君は皮布袋[134]を捨てて肉蒲団に座りに行くことを望むのか。生きている内にきっと自分の行いを悔やみたくなるだろうが、棺桶の蓋を締めて嘆くのはやめなさい。[135]
ここでは「坐肉蒲団」とある。「蒲団」が座具を指す言葉であったのだから、「肉蒲団」にも「坐」の動詞を用いたと考えられる。
③『肉蒲団』巻3 第19回「孽貫已両虚香乱斉出醜 禅机将発諸般美色尽成空」
女性で痛い目にあった未央生が孤峯和尚の言葉を思い出している場面:孤峯又説這樁道理口説無憑,教従肉蒲団上参悟出来,方見明白。我這幾年,肉蒲団上的酸甜苦辣嘗得透了,…。[136]
現代語訳:孤峯和尚はこの道理は話しても根拠はないが、肉蒲団の上で悟れば分かることだとおっしゃった。私はこの数年、肉蒲団の上の辛酸を嫌と言うほど味わってきて…。[137]
④『肉蒲団』巻4 第20回「布袋皮寬色鬼奸雄斉攝入 旃檀路闊冤家債主任相逢」
皮布袋を松の枝に引っ掛けて、未央生の説得の失敗を孤峯和尚が悔やんでいる場面:未央生一日不至,皮布袋一日不収,皮布袋一日不爛,老和尚之心一日不死。但願早収皮布袋,免教常坐肉蒲団。[138]
現代語訳:未央生が一日戻らなければ、皮布袋も枝から下ろさない。皮布袋が一日腐らなければ、この老和尚の心は一日死なない(未央生を待ち続けられる)。ただ早く皮布袋を枝から下ろし、常に肉蒲団に座る者を(その状態から)解放させたい。[139]
以上より小説『肉蒲団』における漢語の「肉蒲団」は、座具の「蒲団」を洒落て女性の体に例えた言葉だったことが分かった。
第2節 「肉蒲団」の言葉はいつ頃から日本文献に見えるか
前節では小説『肉蒲団』中の「蒲団」「肉蒲団」について検証した。では、日本において『肉蒲団』中の「蒲団」「肉蒲団」という漢語はどのように理解され
たのだろうか。まず「肉蒲団」なる漢語が、いつ頃から日本の文献に見えるのかについて調べるため、日本古典文学本文データベース[140]で「肉蒲団」の
文字列を含む文献を探した。その結果、日本古典文学本文データベース中の全909作品の本文には「肉蒲団」の文字列を含む文はなかった。また国書基本デー
タベース[141]で「肉蒲団」の文字列を題名に含む文献を検索すると、石川豊信[142](1711-1785)の『肉蒲団』と、筆者・成立年ともに不
詳だが、絵を菊川英山[143](1787-1867)が描いたとされる『肉蒲団』(別名『会本肉蒲団』)が見つかった。中国の『肉蒲団』が1705年に
日本で刊行された史実を考えると、石川豊信の『肉蒲団』と菊川英山が絵を描いたとされる『肉蒲団』は中国の『肉蒲団』の刊行を受けて著された書と言えるだ
ろう。
加えて『大漢和辞典』には「清代の小説」の意味での出典として雨森芳洲[144](1668-1755)の『橘窓茶話』(1786)をあげている。
『橘窓茶話』巻之上
岡島援之只有肉蒲団一本。朝夕念誦。不頃刻歇。他一生唐話従一本肉蒲団中来。[145]
本文中の岡島援之(1674-1728)は江戸中期の漢学者であり、『水滸伝』の翻訳など白話小説の紹介者として知られている[146]。また本文中に
「唐話従一本肉蒲団中来」とあるので、『橘窓茶話』中の「肉蒲団」は中国小説の『肉蒲団』を指すと言えよう。
更に『日本国語大辞典』は「同衾する女性を蒲団に見なしていう語。転じて女性の肉体」の意味での出典として、江戸時代の川柳句集『柳多留』[147]を載せている。
『柳多留』第150篇30(1838-40)[148]祖山[149]
国政の綻びと成る肉布団[150]
ここでは「肉布団」と表記されているが、この時代日本において「布団」は「蒲団」と同義だったと考えられるので[110]、以降は「肉布団」も「肉蒲
団」と同義の語として論を進めていく。上記の句は柳亭種彦[151](1783-1842)の主催する「花王木会」という当時の万句合[152]の中で取
り上げられた一句である。選句者は「川柳」とだけ書かれており、刊行年から考えると、5代目川柳[153](5代目川柳としての活動期間:1837-
58)に当たると考えられる。実際に『柳多留』第146篇(1838)には5代目川柳の襲名に関することが柳亭種彦によって述べられている。しかし第
146篇以降の篇にも4代目川柳[154](4代目川柳としての活動期間1824-37年)の名が散見され、1838年以前に催された万句合が採録されて
いる。よって上記の川柳が詠まれた年代は1840年以前で4・5代目川柳の活躍した時代(1824-40)と幅広く考えることが適当であろう。中国の『肉
蒲団』は1757年に訳本が刊行されており[155]、1800年代の前期には、川柳に詠み込まれるほどの庶民的な言葉になっていたことがうかがえる。
以上の検討より漢語の「肉蒲団」は、『肉蒲団』の刊行によって日本に輸入された言葉だと分かった。では当時の日本人は輸入された漢語の「肉蒲団」を指す言葉として理解したのだろうか。
第3節 江戸時代の日本人は漢語の「肉蒲団」をどのように理解したか
前節では漢語の「肉蒲団」が『肉蒲団』刊行によって日本に輸入された言葉だという旨とを述べた。では日本人にとって、漢語の「肉蒲団」は何を指す言葉とし
て理解されたのだろうか。前節でも挙げた『日本国語大辞典』「肉蒲団」項の出典である『柳多留』の川柳を見てみよう。
『柳多留』第150篇30 祖山
国政の綻びとなる肉布団[150]
この川柳が詠まれたのは1824-40年頃と考えられる。また1600年代末の日本において「蒲団」が寝具を指す言葉として定着していた史実はすでに述
べた。よって日本人が小説『肉蒲団』を素直に読んだならば、漢語の「肉蒲団」を寝具の「蒲団」を洒落て作った言葉として「同衾する女性、または女性の肉
体」と捉えることは、自然な流れと言える。
また、『日本国語大辞典』は「同衾する女性を蒲団に見なしていう語。転じて女性の肉体。」という意味での出典として、尾崎紅葉(1867-1903)の小説『金色夜叉』[156]も挙げている。
『金色夜叉』中篇 第4章3
貫一は帽を打着て行き過ぎんとする際に、ふと目鞘の走りて、館の賓なる貴婦人を一瞥せり。端無く相互の面は合へり。宮なるよ!姦婦なるよ!銅臭
[157]の肉蒲団なるよ!と且は驚き、且は憤りはたと睨めて動かざる眼には見る見る涙を湛へて、唯一攫にもせまほしく肉の躍るを推し怺へつつ、竊に歯咬
をなしたり。[158]
ここでの「肉蒲団」は明らかに女性の肉体を指す言葉であり、加えて同衾する女性を蔑むニュアンスを含んでいることも分かる。
以上の検討より、日本人は漢語の「肉蒲団」を『肉蒲団』中の意味に従って「女性の肉体」を指す言葉として理解したことが分かった。ただし『肉蒲団』が日
本で刊行された当時に、日本語の「蒲団」は寝具を指していたので、日本人は「肉蒲団」を、寝具を指す日本語の「蒲団」から作られた言葉だととらえた。つま
り中国・日本における「肉蒲団」は両国とも「女性の肉体」を指す言葉だったが、その意味を理解する過程は異なっていたのである。上述した理解の過程におけ
る違いは、『肉蒲団』を読む上で大きく影響したと考えられる。『肉蒲団』中の「蒲団」をフトンとして物語を読むと、読者は「肉蒲団」という言葉から、フト
ンを背景とした情欲の世界を連想するだろう。確かにフトンと情欲の世界は直接に結びつくが、何か新しい世界を生み出す効果はない。他方「蒲団」を座禅用の
座具と理解して「肉蒲団」という言葉を目にすると、読者は一体どのような世界を連想するだろうか。「蒲団」は座禅を通して悟りを開く禅宗の象徴なのだか
ら、読者の頭には「禅宗の世界にあってはならないはずの情欲」の世界が連想され、より一層作品の官能性が増すのである。よって「肉蒲団」という言葉を座禅
用の座具ととらえるか寝具ととらえるかでは、『肉蒲団』を読み解く上で大きな違いがあると言えよう。言い換えると日本人はいまだに『肉蒲団』に描かれた世
界を正確に理解していないのかもしれない。ただし、上述の中・日間における理解の違いは、言い換えれば日本語の「蒲団」が寝具として揺るぎない地位を獲得
していた証拠でもあるともいえる。
小結:
漢語の「肉蒲団」は小説『肉蒲団』とともに日本に伝来した。小説『肉蒲団』中における「肉蒲団」は、中国において座具を指す漢語の「蒲団」から洒落て作
られた言葉だと理解されていた。しかし、日本で『肉蒲団』が刊行された頃に、日本語の「蒲団」は寝具を指す言葉として定着していた。故に当時の日本人は漢
語の「肉蒲団」を寝具を指す「蒲団」から洒落て作られた言葉だと理解したのであった。結果としては中国・日本ともに「肉蒲団」は「女性の肉体」を指す言葉
という理解で一致する。しかし「蒲団」という言葉の理解の違いから、日本と中国は同じ語句を見ながら、異なる対象を思い浮かべて「肉蒲団」という言葉を理
解したことが分かった。
また『肉蒲団』の伝来は、平安・鎌倉に続く「蒲団」という言葉の第三次輸入とも言えるだろう。ただし当時の日本において、「蒲団」は寝具として確固たる
地位を獲得していた。ゆえに寝具を指す言葉の「蒲団」は、『肉蒲団』中の「蒲団」の影響を受けることなく、現在に至っても寝具を指す言葉として日本語の中
で生き続けているのである。
結論
中国において「蒲団」という語句が文献上に現れるのは唐代であり、その「蒲団」は座禅用の座具を指す言葉として用いられていた。その後、中国おいて「蒲団」は常に座具を指す言葉として用いられ、漢語の「蒲団」が寝具の意味を表すことはなかった。
他方、日本には「蒲団」という言葉が中国から3度輸入されたことが分かった。第一次輸入は平安時代の『金剛般若経集験記』に見える漢語の「蒲団」であ
る。この「蒲団」は「ワラフタ」と訓じられ、座具としての意味は輸入されたが、「フトン」という読音を伴っていなかった。漢語の「蒲団」が読音の「フト
ン」とともに日本にもたらされたのは、鎌倉時代の第二次輸入の際であった。この第二次輸入は中国に渡った日本の禅僧が、座禅用の座具を指す「蒲団」という
言葉を日本に持ち帰ったことに起因する。その後、安土桃山時代の終わり頃から、日本語の「蒲団」は徐々に寝具を指す言葉へと変わっていく。中国において
「蒲団」は常に座具を指す言葉であったから、日本語の「蒲団」は独自に座具を指す言葉から寝具を表す言葉へと変わったと言える。1600年代の末頃に、日
本語の「蒲団」は寝具を指す言葉としてすっかり定着したが、その後に再び漢語の「蒲団」が座具を指す言葉として日本に輸入された。この第三次輸入は中国小
説『肉蒲団』が日本で刊行されたことによるものであった。『肉蒲団』中の「蒲団」は座具を指す漢語だったが、寝具を指す日本語の「蒲団」の定着度合いは強
く、第三次輸入によって日本語の「蒲団」が座具を指す言葉へと再変化することはなかった。また、女性の肉体を表す漢語の「肉蒲団」も『肉蒲団』の刊行とと
もに、日本にもたらされた言葉であることが分かった。この「肉蒲団」も座具を指す「蒲団」を洒落て作られた言葉であったが、日本語のフトンの意味に押さ
れ、日本ではフトンを洒落て作られた言葉として理解されたことが分かった。結果として「蒲団」の第三次輸入は、漢語の「肉蒲団」を日本にもたらしただけで
あった。そして日本語の「蒲団」は、その後も指す対象が変わることなく、今日において寝具の代名詞として私達の口から発せられているのである。
本稿では日本と中国の資料をもとに「蒲団」という言葉の歴史について検証してきたが、今回の調査では解明できなかった問題が存在している。一つは日本語
の「蒲団」の指す対象が、座具から寝具に変わった経緯である。「蒲団」という言葉の指す対象が座具から寝具に変わったのは、日本特有の史実の可能性が高い
が、なぜその変化が起きたのかは未だ謎のままである。ただし、フトンの普及と木綿の普及には密接な関係があり、「蒲団」が寝具を指す言葉になった原因も木
綿の普及に関係しているのかもしれない。また、中国と日本の「布団」という言葉の関係についても木綿の普及が関与していると思われるが、資料不足により解
明はできなかった。よって以上の二件は、今後の課題としていきたい。
これまでに日本国内の資料のみで考察されてきた「蒲団」の歴史を、本稿では中国の資料を交えて検証してきた。その結果、寝具を指す日本語の「蒲団」は、
日本独自の言葉ということが分かった。そして寝具の「蒲団」は安土桃山時代に始まり、400年以上もの間私たちの心身を毎夜癒し続けてきた史実が明らかと
なった。
終わりに
最後に注記しておきたいのは、現在も日本では一部の禅宗の座禅において座具の「蒲団」が用いられている事実である。何かの機会に皆さんも座具の「蒲団」
に座することがあるかもしれない。筆者も機会があれば、座具の「蒲団」上で座禅を組んでみたいと思っているが、今は何よりも寝具のフトンにくるまって眠り
たい。
参考文献と注
[1]郡千寿子「『蒲団』をめぐって―漢字表記とその背景―」『国語文学史の研究 五』108・109頁、和泉書院、大阪、2000。
[2]小川光暘『寝所と寝具の歴史』146頁、雄山閣出版、東京、1963。
[3]前掲文献[2]、144頁より引用。
[4]前掲文献[1]、125頁。
[5]藁・藺・蒲・菅などを渦巻状に編んで円形に作った敷物。円座。わらざ。わらだ。日本国語大辞典第2版編纂委員会『日本国語大辞典』第2版、第13巻、1373頁、小学館、東京、2002。
[6] 前掲文献[1]、111頁。平安時代中期の『倭名類聚抄』(931-938)には、「円座」に「和良布太」の音を当てている。京都大学文学部国語国文学研究室『諸本集成 倭名類聚抄 本文篇』318頁、円座項、臨川書店、京都、1968。
[7]日本曹洞宗の祖。道玄とも。総合仏教大辞典編集委員会『総合仏教大辞典・下』1044頁、法蔵館、京都、1987。
[8]詳しくは『永平正法眼蔵』。1231-53(鎌倉時代中期)の23年間に、道元が話したことをまとめた法語集。日本曹洞宗の根本宗典。総合仏教大辞典編集委員会『総合仏教大辞典・上』749頁、法蔵館、京都、1987。
[9]玉城康四郎『現代語訳 正法眼蔵(四)』333頁、大蔵出版、東京、1994。
[10]前掲文献[9]の333・334頁では「坐蒲」と訳されている。
[11]奈良興福寺多門院の僧が付けた日記。1478-1618年までを記事に収める。戦国時代から江戸初期までの政治・社会・文化にわたる貴重な資料。松村明・三省堂編修所『大辞林』、1507頁、三省堂、東京、1988。
[12]「フトン」は原文でも片仮名。辻善之助編『多聞院日記』第4巻、341頁、三教書院、東京、1938。
[13]以上本章は前掲文献[2]の143-170頁、および前掲文献[1]の110・111頁を参考に筆者がまとめた。
[14]諸橋轍次『大漢和辞典』巻9、829頁、大修館書店、東京、1945。
[15]愛知大学中日大辞典編纂所『中日大辞典』1425頁、大修館、東京、1986。
[16]北京商務印書館・小学館『中日辞典』1088頁、小学館、東京、1992。
[17]アルファベットは中国語のピンインを表し、数字は中国語の声調を表す。
[18]前掲文献[16]、1088頁。
[19]金剛般若経の教えを守る者に起こった霊験を集成したもの。3巻から成る。当時、中国では『般若心教』と共に広く流行した。唐初の民間仏教の信仰実
態を知る上で貴重な資料とされる。平安初期には、日本でも寺院説教の場などで念仏指導の資料として広く用いられていた。中国では逸書となっており、伝本は
日本のみに残る。多田一臣『日本古典文学大事典』489頁、明治書院、東京、1998。また金剛般若経は、仏教の経典で600巻といわれる般若経を短く簡
潔にした経文のことで、唐代においてもっともよく読まれたお経のひとつである。鈴木大拙『金剛経の禅・禅への道』11・12頁、春秋社、東京、1960。
[20]『金剛般若経集験記』の最古の写本は、平安時代前期に書写された石山寺所蔵の上巻および天理大学所蔵のその僚巻の残巻である。奈良国立博物館HP。
http://www.narahaku.go.jp/meihin/syoseki/094.html (2006/12/6参照)。
[21]紀昀・陸錫熊・孫士毅『文淵閣四庫全書(電子版)』、上海人民出版社[上海]・迪志文化出版[香港]、1997。『四庫全書』は中国の叢書名。清代の乾隆帝のときに編纂された。1782年成立。
[22]『全唐詩』台湾故宮博物院http://210.69.170.100/s25/index.htm (2006/11/25に参照)。
[23]清代に編集された唐詩の全集。全900巻。1706年成立。日本国語大辞典第2版編纂委員会『日本国語大辞典』第2版、8巻、139頁、小学館、東京、1972。
[24]「梵宇」は仏寺のこと。前掲文献[14]、巻6、383頁。
[25]「慧力」は煩悩を除く力。前掲文献[14]、巻4、1164頁。
[26]彭定求『全唐詩』巻266、第7葉オモテ、前掲文献[21]所収本。
[27]現代語訳:雨は連峰を通り過ぎ谷川の水はそうそうと流れる。松の下の門前には白い鶴が二羽いる。香の薫りが漏れて窓の外へ出て、桧や柏の辺りに満
ちる。雲が現われ、仏寺の旗とその柄は湿る。僧は蒲団で心を静め、風がその場を吹き抜ける。葦の生えた岸辺で漁歌を詠う漁師の舟や月が川の向こうに消えて
いくのを眺める。この命もその月と同じようにいつかは消えて無くなるものだと誰が知っていようか。老いて心静かにし、慧力は心の落ち着きをもたらす。筆者
が訳したものなので、多分に間違いが予想されるが、おおよその意味は上記の通りだと考えてよいと思う。
[28]『中国文学大辞典』に、顧况は「貞元九(793)年帰呉、于茅山受道籙」とある。馬良春・李福田総主編『中国文学大辞典』、4765頁、天津人民
出版社、1991年。「道籙」とは道家の秘文のこと。故に「誰悟此生同寂滅」の部分は、道教の不老長寿を求める考えが垣間見える顧况晩年の気持ちと捉えて
よいのではなかろうか。
[29]インドの達磨によって6世紀の初めに中国へ伝えられ、7世紀から8世紀初頭にかけて発展した。石森延男『学研国語辞典』468頁、学習研究社、東京、1967。
[30]玉泉神秀(?-706)門下を指していう語で、唐代は特に中原の貴族に受け入れられた。伊吹敦『禅の歴史』30頁、宝蔵館、京都、2001。
[31] 柳田聖山「中国禅宗史」西谷啓治編『講座 禅 第三巻 禅の歴史-中国-』34頁、筑摩書房、東京、1967。
[32]柳田聖山「中国禅宗史」西谷啓治編『講座 禅 第三巻 禅の歴史-中国-』48・49頁、筑摩書房、東京、1967。
[33]前掲文献[14]、巻3、975頁。
[34]前掲文献[14]、巻8、498頁。
[35]座禅をするときの正しい座相。まず右足を左ももに置き、次に左足を右ももに置く。前掲文献[14]、巻8、1033頁。
[36]ざんまい。心を一つの対象に集中させて取り乱さない状態。前掲文献[7]、504頁。
[37]前掲文献[14]、巻8、499頁。
[38]前掲文献[30]、30頁。
[39]前掲文献[26]、巻267、第5葉ウラ、前掲文献[21]所収本。
[40]訓読:山中に宿る僧
香炉を燃やさず 蒲団座すること鉄の如し
嘗て想う同夜の禅 風松木の雪を堕とす
[41]前掲文献[26]、巻530、第5葉オモテ、前掲文献[21]所収本。
[42]生没年は未詳だが、黄巣の乱(874-884)を逃れて九華山(安徽省西南部にある山)に隠居するとある。臧励龢等編『中国人民大辞典』954頁、商務印書館、北京、1920。
[43]前掲文献[26]、巻639、第7葉オモテ・ウラ、前掲文献[21]所収本。
[44]前掲文献[1]、108・109頁。
[45]前掲文献[5]、第11巻、973頁。
[46]栄西(1141-1251)が臨済宗を、道元(1200-1253)が曹洞宗を伝えた。前掲文献[21]、469頁。
[47]1223年宋に渡り、禅を修めた後、1227年に帰国。前掲文献[7]、1044頁。
[48]編者である謝維新の生没年は不詳だが、『四庫総目提要』の『古今合璧事類備要』に「是書成于宝祐丁巳(1257)前」とある。『四庫総目提要』は
中国の叢書目録。全200巻、1782年成立。『四庫全書』中の著録(『四庫全書』に筆録されている文献)と存目(目録のみの文献)の作者・内容・価値に
ついて解説したもの。前掲文献[5]、第6巻、624頁。
[49]釈迦の教え。仏教のこと。前掲文献[14]、巻11、409頁。
[50]禅板、倚板とも。座禅時に身を寄せかけたり、あごを支えるなどして頭を伏せないようにする道具。駒沢大学内禅学大辞典編纂所『新版 禅学大辞典』700頁、大修館書店、東京、1985。
[51]洞山門派の禅僧。洞山良价の弟子。洞山門派は洞山良价(807-869)が起こした禅宗の一派。前掲文献[30]、65・67頁。
[52]禅宗を開いた達磨を指す。元来「祖師」は釈迦を指す言葉。その後、転じて一派の宗門を開いた僧を指すようになった。前掲文献[14]、巻8、432頁。
[53]謝維新『古今合璧事類備要』巻48・第5葉ウラ、前掲文献[21]所収本。
[54]生没年未詳。宋代の禅僧。『景徳伝灯録』30巻を著した。日外アソシエーツ株式会社編『中国人名事典 古代から中国まで』506頁、紀伊國屋書店、東京、1993。
[55]30巻からなる禅宗の歴史書。禅宗歴代1701人の言葉を収録したとされているが、伝のない人物も含まれている。禅宗独特の教義が確立される上で非常に重要な役割を果たした。前掲文献[30]、92頁。
[56]成立は1004年だが刊行は1080年。前掲文献[30]、92頁。
[57]永安道原『景徳伝灯録』巻17、第10葉オモテ、張元済『四部叢刊(電子版)』所収本、北京書同文数字化技術有限公司、北京、2001。『四部叢
刊』は張元済が中心となって、上海の商務印書館から出版した主要な古典の影印本。良質な底本の提供を目標とした。中国学工具書提要http:
//www.karitsu.org/kogusho/e1_4bsk.htm(2006/12/15参照)
[58]前掲文献[30]、67頁。
[59]道元は中国曹洞宗の天童如浄(1163-1128)のもとで禅を学んだ。前掲文献[30]、115頁。
[60]2巻、後集1巻。慧洪撰。宋代の禅門の善行などを記す。慧洪は臨済宗の僧。覚範慧洪とも。前掲文献[30]、97頁。
[61]仏家、僧侶の意。前掲文献[14]、巻11、409頁。
[62]「敷く」の意。籍は藉に通ず。前掲文献[14]、巻8、840頁。
[63]慧洪『林間録』巻上、第3葉ウラ、前掲文献[21]所収本。
[64]生没年未詳。浙江の銭塘の人。明の万暦(1573-1620)・天啓(1621-1627)年間に活躍。戯曲作家、詩文作家。前掲文献[28]、第7巻、4995頁。
[65]明末には、文人たちが身の回りの生活用品・文具などに対して研究・評価する活動が盛んになる。『遵生八牋』はその研究・評価が多岐にわたるととも
に、詳しい考察が記された書として知られる。荒井健他訳注『長物志-明代文人の生活と意見-』第2巻、前書き、平凡社、東京、2000。
[66]明代の詩人作家、戯曲作家。鄞県(現在の浙江省寧波)の人。前掲文献[28]、第7巻、5558頁。
[67]16世紀末頃に成立。大部分において『遵生八牋』を節略・転載している。前掲文献[65]、前書き。また「考槃」はあぐらをかいて気ままな暮らしをする意。前掲文献[14]、巻9、161頁。
[68]江蘇の人。詩文作家・画家。前掲文献[28]、第3巻、1147頁。
[69]『考槃余事』を参考に書かれた箇所が多く見られる。荒井健他訳注『長物志-明代文人の生活と意見-』第2巻、前書き、平凡社、東京、2000。また「長物」は「無用のもの・贅沢品」の意。前掲文献[14]、巻11、688頁。
[70]「墩」とは室内や庭園に置く太鼓型の腰掛けのこと。石・陶磁器・木・竹・藤などで作られた。古くは木製の座面を支柱で受けて植物繊維をかたく詰
め、錦織で覆う。前掲文献[65]、247頁。また、『遵生八牋』巻8「藤墩」項に、「蒲墩止宜於冬月,三時当置藤墩(「蒲墩」は冬期に安座し、春・夏・
秋は「藤墩」を用いるべきである)」とある。趙立勛等『遵生八牋校注』245頁、人民衛生出版社、北京、1993。
[71]「暮らし、寝食」の意。前掲文献[14]、巻8、836頁。
[72]さまざまな方法を通した健康の管理・増進を指す語と思われる。「怡養用事具」の紹介に先立って、高濂は「恬養(平静無欲を以て心を養うこと。前掲
文献[14]、巻4、1041頁。)一日之法」と称して、起床後の運動や、四季の体温管理、就寝の方法など様々な健康法を述べている。なお「怡養」を『大
漢和辞典』でひくと、「すべてを通してやしなう」とある。前掲文献[14]、巻4、1003頁。
[73]約40cm。加納喜光等『漢字源』巻末附録、「中国歴代度量衡換算表」、学習研究社、東京、2001より算出。
[74]塗り飾りのない車。前掲文献[14]、巻6、7頁。
[75]「径」の意か。
[76]約100cm。前掲文献[73]より算出。
[77]「呉」は広く南方を指す言葉であるが、ここでは高濂の出生地である浙江省周辺を指す言葉と考えられる。
[78]前掲文献[70]、246頁。
[79]蒲の穂綿を袋に詰め、更に「褥面」と呼ばれるシーツでその袋を包んだ「敷きブトン」のこと。厚さが20㎝前後で、冬期に使用し、春になると天日干しにして毎年使う。前掲文献[70]、244頁。
[80]「氈」は毛織物のこと。前掲文献[14]、巻6、832頁。
[81]「游具」の紹介に先立って、「高氏游説」高濂の遊説に関する記載がある。よって「游具」はと思われる。
図 棕の葉
[82]「棕」は草の名前(写真は右図)。棕櫚とも。しゅろ。前掲文献[14]、巻6、421頁。「棕団」は「棕」で作った円座。右図は、蕭培根主編・真柳誠訳『中国本草図録』巻2、213頁、261頁、中央公論社、東京、1992より。
[83]一人称。高濂を指す。
[84]「恭しく座る」の意。前掲文献[14]、巻2、82頁。
[85]前掲文献[70]、260頁。
[86]図1:清早期、「鶏翅六開光坐墩」、高さ46.5cm、直径27.5cm。北京故宮館蔵明清家具賞析図より転載。
http://bbs.chinabroadcast.cn/read.php?tid=169261(2006/12/15参照)。
[87]山頂のこと。前掲文献[14]、巻4、201頁。
[88]硫化鉱物。特異な臭気があり、味は淡い。前掲文献[82]、巻1、261頁。
[89]蝋ぬりの布で作った円座か。前掲文献[65]、249頁。
[90]中国医学に「湿邪を燥かす」効能があると言われており、その効果を期待したのかもしれない。前掲文献[82]、巻1、261頁。
[91]屠隆『考槃余事』巻4、第2葉オモテ・ウラ、龍威秘書・馬俊良編『百部叢書集成』所収本、芸文印書館、台北、1968。
[92] 文震亨『長物志』巻7、第14葉オモテ、前掲文献[21]所収本。
[93]屠隆『考槃余事』巻4、第2葉オモテ、前掲文献[91]所収本。
[94]文震亨『長物志』巻7、第13葉ウラ、前掲文献[21]所収本。
[95]前掲文献[14]、巻3、103頁。
[96]図2:『版画六祖像』、劉長楽主編『中国古文明大図集 第8部 頤寿』279頁、宜新文化事業有限公司・楽天文化公司、台北・香港、1992。
[97]前掲文献[2]、152頁。
[98]武部善人『綿と木綿の歴史』82頁、御茶の水書房、1997。
[99]堀田満等編『世界有用植物事典』495頁、平凡社、東京、1989。
[100]西島定夫「明代における木綿の普及について(下)」『史学雑誌』第57編、39頁、東京大学出版会、1972。
[101]身体を寄せかける大きい袋。前掲文献[14]、巻11、974頁。
[102]こしかけ、ねだい、細長く低い床。前掲文献[14]、巻6、490頁。また同じく寝台を指す「床」と区別して、上に屏や帳等が付けられないもの
をいう。明代において、人は直接、榻の上に横になるか、薄い敷物を敷いて寝ていた。王青等「中国の寝台の歴史に関する考察」『学術講演梗概集.
E-2, 建築計画II, 住居・住宅地, 農村計画, 教育』巻号1995、321 頁、社団法人日本建築学会、東京、1995。
[103]前掲文献[70]、244頁。
[104]七澤は号。名は所望。インターネットサイト「上海辦公室」の『上海県志』より。http:
//www.shtong.gov.cn/node2/node4/node2250/shanghai/node54197/node54199/node63622/userobject1ai52023.html
(2006/10参照)
[105]
「梧」は府名。今の広西省蒼梧県。前掲文献[14]、巻6、377頁。「潯」は州名。今の広西省桂平県。前掲文献[14]、巻7、279頁。張七澤は広西
省の副使の任に就いていたため当時の広西省東部について記録したものと考えられる。前掲インターネットサイト[104]。(2006/10参照)
[106]木綿の別名。『古今図書集成』には、他に「古終」「古貝」「啖婆」「斑枝花」「迦羅婆劫」の別名が紹介されている。陳夢来『影印古今図書集成』草木典、2819頁、鼎文書局、1985。
[107]しとね、敷物のこと。前掲文献[14]、巻10、210頁。
[108]「治」は「盛んになる」の意。明代において木綿の栽培は全国に普及していたものの、基本的には北方で栽培されており、南方は高度な織物技術の発達地であった。前掲文献[100]、第57編、41頁。
[109]前掲文献[106]、草木典、2819頁。
[110]前掲文献[1]、118頁。
[111]岩波書店辞典編集部『逆引き広辞苑』1102頁、岩波書店、東京、1992。
[112]前掲文献[5]、第10巻、406頁。
[113]李漁(1611-80)の作と言われ、色欲を貪る未中生が最終的に心を入れ替える物語。中国では1810年、「淫書」を理由に発禁となった。前掲文献[28]、2000頁。
[114]前掲文献[14]、巻9、249頁。
[115]大東文化大学中国語編纂室『中国語大辞典』第2冊、2580頁、角川書店、東京、1994。
[116]前掲文献[16]。
[117]前掲文献[15]。
[118]「零度空間BBS精華区」http://140.112.99.138/10/chinese/index.html。
[119]『肉蒲団』http://140.112.99.138/10/chinese/bad.txt(2006/12/01参照)。
[120]「肉蒲団」の記載は含めなかった。
[121]未央生に仏道に入るよう説く高僧。
[122]「打坐」は「座禅をする」の意。前掲文献[14]、巻5、95頁。
[123]情隠先生(李漁を指すと見られる)『肉蒲団 一名 覚後禅』巻1、第8葉オモテ、聯合出版社、香港、刊年不詳。
[124]前掲文献[123]、巻1、第8葉ウラ。
[125]前掲文献[123]、巻4、第42葉ウラ。
[126]權老実は玉香の前夫。玉香が未央生と肉体関係を持ったことを知り、玉香を売りとばした人物。
[127]權老実のこと。この場面では權老実も仏道に帰依しているため、「和尚」と書かれている。
[128]未中央の法名。
[129]前掲文献[123]、巻4、第46葉オモテ。
[130]参禅して悟ること。参禅とは禅道に入り、座禅をして禅を修めること。前掲文献[14]、巻2、679頁。
[131]前掲文献[123]、巻1、第15葉ウラ。
[132]伏見沖敬『完訳肉蒲団』28頁、文園社、東京、1963を参考に筆者が訳した。
[133]「第1回」は前書きに当てられている。
[134]孤峯和尚のトレードマーク。彼が皮布袋に木魚やお経を入れて修行を行っていたことから。ここでは「仏道」の代名詞として使われていると思われる。
[135]前掲文献[132]、29頁を参考に筆者が訳した。
[136]前掲文献[123]、巻3、第40葉オモテ。
[137]前掲文献[132]、363頁を参考に筆者が訳した。
[138]前掲文献[123]、巻4、第42葉オモテ。
[139]前掲文献[132]、370頁を参考に筆者が訳した。
[140]日本古典文学本文データベース
http://base3.nijl.ac.jp/Rcgi-bin/hon_home.cgi(2006/12/03参照)。
[141]国書基本データベース
http://base1.nijl.ac.jp/~kokusho/pub/ikdb.html(2006/12/04参照)。
[142]江戸中期の浮世絵師。当時を代表する美人画家。市古貞次『国書人名大辞典』第1巻、112頁、岩波書店、東京、1993。
[143]江戸後期の絵師。父の影響で狩野派の絵を学び、後に友人との交流を通して北斎の風も摂取した。1804年頃から美人画を中心に活躍した。前掲文献[142]、第2巻、13頁。
[144]漢学者。朝鮮語・中国語に通じており、応対には通訳を必要としなかった。近藤春雄『日本漢文学大辞典』14頁、明治書院、東京、1980。
[145]雨森芳洲『橘窓茶話』巻之上、365頁、日本随筆大成編輯部『日本随筆大成 』第2期 7所収本、吉川弘文館、東京、1994。
[146]前掲文献[142]、第1巻、364頁。
[147]江戸時代中~後期の川柳句集。初篇1756年刊~第167篇1840年刊。相賀徹夫『日本大百科全書23』197・198頁、小学館、東京、1988。
[148]刊行年は不明。第146篇が1838に刊行されており、1840年に第167篇で終刊になっている。前傾文献[147]、197頁。
[149]詠人の柳号と思われるが詳細は不明。
[150]岡田甫『俳風 柳多留全集11』331頁、三省堂、東京、1978。
[151]本文には柳号の「木卯」で載っている。前掲文献[150]、330頁。
[152]まんくあわせ。お題となる句に対して秀逸な句を付けた者に賞品を贈るなどした興行のこと。元来、川柳は五・七・五の長句と七・七の短句を交互に付加してゆくものであった。西山松之助等『江戸学大事典』454頁、弘文堂、東京、1984。
[153]本名水谷金蔵(1787-1858)。浜田義一郎『江戸川柳辞典』536頁、東京堂出版、東京、1965。
[154]本名人見周助(1778-1844)。前掲文献[153]、535頁。
[155]駒田信二「艶笑文学のすべて -中国の艶笑文学-」『国文学 解釈と教材の研究』7月号、184頁、学燈社、東京、1969。
[156]尾崎紅葉の長編小説。「読売新聞」1887年1月1日~1895年5月11日に掲載。浅井清・佐藤勝『日本現代小説大事典』403・404頁、明治書院、東京、2004。
[157]「汚い金の臭いがする」の意。福田清人『日本近代文学大系 第5巻 尾崎紅葉集』中篇第4章3、167頁、頭注、角川書店、東京、1971年。
[158]前掲文献[157]、中篇第4章3、167頁、角川書店、東京、1971年。
謝辞
本拙論を執筆するに当たり、多くのご指導・ご支援を頂いた指導教官の真柳誠教授、西野由希子助教授、室井陽一氏にこの場を借りて厚くお礼申し上げる。以上を以て本稿を終了する。