←戻る

真柳誠「證・証・症という漢字」『漢方の臨床』60巻3号巻頭言431-432頁、2013年3月


證・証・症という漢字

真柳 誠

 

 中国医学や漢方には「証」という概念があり、現代医学でいう症候の「症」とは違うという。しかし明瞭に定義づけられない部分もあるため、しばしば証に関するシンポジウムも日中で開催されている。ちなみに現在の日中とも「証」の旧漢字を「證」とし、古典籍の證を証に書き改めることが多い。ところが吉益南涯の著書に『観症弁疑』があるように、江戸期や明清代に症を證・証と同じ意味で使用している医書は多数ある。彼らが漢字に無頓着だったはずもないのに。

 かつて『温疫論』(一六四二)を読んでいたとき、巻下の正名篇に次の記述があることに気づいた。「病證の證を後人は省略して筆画の少ない証で書き、さらに言を省いて疒を加え、症の字を作った」、というのである。そこで辞書ほかにあたってみた。

 まず「證」だが、音はショウで、意味は多い。早くは「つげる」の用例が前四五〇年ころの『論語』からみえる。つぎに「あかし」の用例が前二七〇年ころの『楚辞』から、「いさめる」の用例が前二三五年以前の『呂氏春秋』から出てくる。のち「病候」の用例が前二〇〇~後三〇〇年ころの『列子』から出現していた。

 一方、「証」は音がセイで、「いさめる」の用例が前四〇〇~二〇〇年ころの『戦国策』からある。セイ・ショウの音では「あかし」が六四三年の『晋書』から出現する。そしてショウの音で「病候」の用例が元・関漢卿(一二三〇~八〇)の元曲台本『拝月亭』に、「病人に変証はなく、ゆっくりと陰陽に伝わる」という文章で初めて出てきた。しかも『拝月亭』の別伝本では、「変証」が「変症」となっている。この作者の関漢卿は元の皇帝の侍医だったという。

 つまり「證」の音は本来ショウであり、「つげる」「あかし」「病候」の順で意味を拡大している。別字である証の本来の意味、「いさめる」も吸収したことが分かる。他方、「証」の音はもともとセイで、訂正や是正の「ただす」から派生した「いさめる」の意味だった。それが七世紀以降になって證に代用され始め、證の音ショウと意味の「あかし」と「病候」を吸収していったことになる。

 さて問題の「症」字だが、元の『碧桃花』という元曲台本に「寒けや発熱があるが、どんな症候なのか分からない」とあるのが早い用例で、元・鄭徳輝『倩女離魂』にも同じ「症候」がある。上述のように『拝月亭』の別伝本でも、「変証」が「変症」と記されていた。明代になると症の用例が急増してくる。

 結局、『温疫論』のいうとおりだった。音がショウの「證」を病候の意味に使うのは前二〇〇~後三〇〇年ころからで、これが別字の「証」に転用されたのは千年も後の元代一三世紀のこと。ほどなく病候に意味を限定したショウ音の「症」が証から作字され、明代から普及していた。

 ただし證・証と症に、「症候群と単一症候」などの相違は当初からない。中国医学古典ができた一~三世紀ころに症の字があれば、あるいはそんな区別ができた可能性もあろう。ところが当時、病候の意味を持っていたのは證の一字だけで、区別のしようなどない。そして元代から病候の證に証の字が代用され、さらに証から症が作字されたのだから、病候をいう證と証と症の字義は本質的に同一なのである。明清代や江戸期はこうした事情がおよそ自明だったからこそ、筆写にも便利な症の字を證・証と同様に使用する例が多かったのだろう。彼らが文字に無頓着だったのではない。

 では、いつから証(證)は症候群、症は単一症候という解釈が始まったのだろう。管見のかぎり、そうした区別は江戸期と清代までにみえない。するとヨーロッパ語のSymptomを症候と翻訳した近代以降だろう。近代西洋医学で症の字が普及したとき、手にした医学古典には證の字しかない。そのうえ戦後、日中両政府ともに別字の証を證の略字(実は当て字、中国語の白字)と規定した。このため、ついに證=証≠症と両国で誤認されるようになってしまったのだ。中医学でも証≠症を強調するが、私は日本の影響かとも思う。

 なお一~二世紀の『素問』『霊枢』『神農本草経』に證の用例は皆無に近く、三世紀の『傷寒』『金匱』から多用されるようになる。その「觀其脈證、知犯何逆、隨證治之」の證が、Symptomと別概念なのは贅言するまでもなかろう。ことの発端は張仲景かもしれない。