←戻る         「漢方の臨床」43巻5号786-788頁、1996年5月

目でみる漢方史料館(96)

伊沢蘭軒門下の『素問』研究−渋江抽斎筆『素問次注筆録』−    解説    真柳  誠




  晩年の森鴎外による医家史伝『渋江抽斎』『伊沢蘭軒』『小島宝素』の価値は高い。最近、京都大学の松田清教授より同大図書館蔵の『素問次注筆録』三九丁一冊をご教示いただき、鴎外の史伝にも補遺すべき史実が見いだされた。この第一丁(写真1)書名下には「天保壬辰閏月初五起業」とあり、天保三年(一八三二)二月五日に筆録を開始したらしい。また「森氏」(森立之・約之)の蔵印と以下の約之の書き入れがある。

  天保壬辰年、家大人(立之)と伊沢榛軒(蘭軒長男)、柏軒(蘭軒次男)、渋江抽斎、岡西魯直、山田子勤(業広)、有馬桑軒等、会して素問を講ずること五、六篇に至りて会止む。抽斎全善の此の撰、即ち其の際記す所。頃日、匡笥を探りて此の三十九頁を得る。湿爛残欠、尤も甚だし。今、粘制装褫し、以て後に貽す。当時、家大人の撰す所の注解、則ち余の日々拝攬して釈かずと爾云う。文久壬戌(一八六二)十一月廿七日、森約之書。此の冊、家大人の標記補録、甚だ多し。当時書する所也。乃ち両公(抽斎と立之)同撰の冊也。森約之又識す。
 
 
 
 
 


  本書は蘭軒門下の彼らが、蘭軒没後三年の一八三二年二月五日から始めた『素問』研究の結果を渋江抽斎が記録したものだった。筆も明らかに抽斎のもの。参加者は榛軒以下みな二〇代である。むろん鴎外の各史伝に当研究会の話はない。さて森約之は五、六篇に至りて会止むと記すが、本書の末尾(写真2)は『素問』第三篇の途中で終わる。本来さらに二、三篇分あったが、約之の時点で湿爛残欠していたのだろう。約之が書き入れした一八六二年は抽斎の没後四年で、父の立之は一八六〇年から『素問攷注』を起稿している。この参考に渋江家から本書を借り出したのかも知れない。また「家大人の標記補録、甚だ多し」と記すように本書は立之の按語をしばしば採用し、立之自筆も第二四丁(写真3)ウラほかに見える。
 
 


  ところで写真2の「楊」「按太素」は『太素』巻三から、写真3の「按太素」「楊上善云」は『太素』巻二からの引用である。尾張の浅井正封が仁和寺本『太素』の転写を入手し、その再転写を江戸の小島宝素が得たのは一八三一年冬のこと。すると蘭軒門下の彼らは江戸に『太素』が伝えられた数か月後、即座に研究利用していた。『太素』による初の『素問』研究は一八三六年起稿の多紀元堅『素問参楊』とこれまで考えられていたが、それより四年早い。しかも『太素』の巻三と九が仁和寺本より転写されたのは一八三四年とかつて推定されていたが、巻三は一八三一年以前に転写されていたことも判明した。

  二月五日から始めた当研究会は五、六篇で終わった。こうした会はふつう五日か十日おきだが、主宰した榛軒は同年三月十日より医学館で『外台秘要方』の講義を命じられている。それと重なったので会が中座したらしい。榛軒の講義は一八三一年に宝素が宋版『外台』の影写を入手したことに関連するのだろう。

(茨城大学人文学部/北里東医研医史学研究部)