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『漢方の臨床』58巻9号1694-1696頁、2011年9月

目でみる漢方史料館(276) 『医界之鉄椎』の中国語版
    解説   真柳  誠


 

図1壮年時の丁福保  図2中国版『医界之鉄椎』表紙

 前号で和田啓十郎『医界之鉄椎』のベトナム語版を紹介した。本号では中国語版を紹介しよう。

 中国で日本関連の医書が出版されるのは明治維新後の清末からである。当初は漢方廃絶で無用となった和刻版木が輸出され、これによる重印本だった。しかし、日清・日露戦争後は自大意識から目覚めた留学生や視察者が急増し、近代日本の医書や漢方・針灸書も彼らにより翻訳出版されるようになる。そうした活動を初期から精力的に続けたのが図1の丁福保(一八七四〜一九五二)である。

 彼は多数の日本医書を編訳、その一つが『医界之鉄椎』だった。中国語版は一九一一・一七・二〇・三〇年(図2・4)の四版があり、いずれも日本初版(一九一〇)の丁福保訳で、上海医学書局の出版である。また『化学実験新本草』(一九一〇)で日本の生薬研究を紹介、『臨床漢方医典』(一九一六)、『漢薬実験談』(一九一八)も翻訳出版した。『医界之鉄椎』の翻訳については緒言(図3)にこういう。

西医の術は未発達で、中国の薬と薬方にも西医より優れたものがある。両医学は長短があり一方だけ廃すべきではない。これを世人に知ってほしいのが訳者の気持ちである。……本書は西医の短を強調し過ぎ、私の持論と矛盾すると思われるかもしれない。しかし本書は和田氏の書であり私の自著ではない。和田氏の言うすべてが私の意見と同じなどありえようか。……

 

図3同前・丁福保緒言      図4同前・巻頭

 すなわち丁福保は和田啓十郎の論に全面的に賛同し、本書を訳したわけでもない。彼は西洋医学との融合による中国医学の科学化を目的とし、自身の臨床は診断ほかの基礎医学が西医、投薬は中薬中心だった。これは彼が来日時に見聞した漢方医の臨床に学んだと回想しており、彼と門下は日本の漢方治療と研究にたえず注目していたという。

 さて丁福保は無錫の出身。二〇代まで儒学・算学を学んだが、病弱のため上海に出て中・西の両医学を修め、日本語は東文学堂で藤田豊八に師事した。一九〇九年には両江総督正規軍の医科試験にて最優秀成績で内科医士証を得る。この結果、洋務運動を提唱した政治家・盛宣懐の命で同年五月に訪日した。彼が受けた命とは、「日本の医学各科、明治初年医学改革の状況、使用している漢薬、医学校・病院の課程と規定」の調査だった。日本では東京帝大・伝染病研究所ほか多く機関や図書館を訪問、多量の医書も購入して六月に帰国した。

 盛宣懐は一九〇八年に来日して東大伝染病研究所の北里柴三郎に病気治療を受けながら、東京や京都で一万巻以上の古典籍と新学書を購入している(陳捷「近代における日中間の古典籍の移動について」、大澤顯浩『東アジア書誌学への招待』第一巻二四九〜二七四頁、東京・東方書店、二〇一一)。この経緯があって丁福保を日本に派遣したのにちがいない。ちなみに『医界之鉄椎』の初版は来日の翌年なので、丁福保は帰国後に上海で入手したのだろう。

 彼が訪日で受けた刺激は大きかった。翌年の一九一〇年に上海で中西医学研究会を設立、同時に月刊誌『中西医学報』を創刊し、中西医学の表現を普及させた。これは日本で当時から使用されていた東西医学に由来するかもしれない(管見範囲で「中西医学」の語彙は合信Benjamin Hobsonの『西医略論』〔咸豊七年、一八五七自序〕に早い用例がみえる。西医の語彙は文政八(一八二五)刊のスウイーテン著・デルハール訳・宇野広生(蘭斎)重訳『西医知要』の用例が早い)彼は同誌の一巻一号(図5)に「日本医学記」を載せ、詳細な調査報告とともに、日本の知見に基づく中国医学の改良を唱えた。同年には伝染病研究所で志賀潔より得た書の前半を編訳し、『赤痢新論』(図6)として出版した。このように彼が日本の医書等より編訳したのは約一〇〇書・一八〇種におよび、その約九割は近代医学の教科書や入門書である。そうした彼の業績を、友人の医史学者・陳邦賢は日本の蘭学者に比肩すると評した。

 

図5『中西医学報』1巻1期  図6志賀潔原本『赤痢新論
  一方で丁福保は医書誌も研究、門下が増補して『四部総録医薬編』(一九五五)とし、彼の巨著『説文解字詁林』六六冊(一九二八)とともに現在も利用される。彼は五八歳で臨床を廃し、晩年は仏教学と文筆を友に社会慈善事業に携わり、多額の寄付を毎年したことも特筆すべきだろう。

附記:『医界之鉄椎』は韓国語版が一九一〇年に刊行されている(和田正系「医界之鉄椎を巡って△張基茂氏の韓国語飜訳」『漢方の臨床』25巻10号608-613頁、1978)ので、丁福保の中国版より一年早い。しかも漢字圏四国ですべて出版されていた。同様の例は中国の『医学入門』に日韓越版が知られるのみで、近代日本医書としてもきわめて珍しい例といえよう。

(茨城大学大学院)