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『漢方の臨床』49巻10号1258-1260頁、2002年10月

目でみる漢方史料館(172)

金沢文庫の医学古文書       解説   真柳  誠


 横浜市金沢区に神奈川県立金沢文庫がある。前身は北条実時が同地の邸宅に建治元年(一二七五)ころ付設した文庫で、のち顕時・貞顕・貞将の三代も蒐集を続けた。蔵書には当時新渡来の宋版医書等もあったが、鎌倉幕府の滅亡以降に多くが散逸した。しかし一部は隣接する北条氏菩提寺の称名寺が保存し、昭和五年に復興された今の金沢文庫に伝えられている。
 この称名寺伝来文書に、写真1の二軸に装訂された医書計六点があることを、同文庫の西岡芳文氏からご教示いただいた。うち二点については、関靖『金沢文庫の研究』(一九五一。以下、関氏と略)に故・石原明氏の意見に基づく概説がある。そこで西岡氏のご教示等も参考に、これらを紹介しよう。


 写真1左の軸には@〜Dの断簡が収められる。@は臓腑論の一紙で、紙背は称名寺三世長老・湛睿(一三三九就任)の文書。Aの一紙は脈診と臓腑の論が見える上部のみ残存し、「天人合一論抄」の仮題が与えられる。Bは脈診論の一紙で、「察病指南抄」の仮題がある。Dは「指掌図」の仮題がある一紙で、左右の指掌各部位に仏教医学で命名した絵図が描かれる。

 C(写真2)は巻子本医書の目次一紙。端正な筆で第二七〜三六の篇目が記され、下方に別筆で第二一〜二六が追記される。同文庫には、この前部と思われる第一〜二六の篇目を記した別筆の断簡もある。両者とやや似た目次が『仮名万安方(頓医抄)』巻五〇にあるという石原氏の指摘、また同文庫文書に『頓医抄』貸借の記述がある点から、関氏は両断簡を『頓医抄』の目次かと推測する。一方、小曽戸洋氏(『中国医学古典と日 本』五八三頁、一九九六)は、後者断簡の篇目が加賀前田家の尊経閣文庫蔵『延寿要集』B本(A本は『医心 方』だった)の篇題と順次まで酷似する点から、両者の密接な関係を推定する。なお当B本は京都・仁和寺の旧蔵、かつ称名寺二世長老の釼阿は仁和寺で真言密教の御流を学び、両寺の文書には密接な関連がある。すると小曽戸氏の推定でほぼ問題なく、写真2の断簡も『延寿要集』B本の失われた後半部分の目次らしい。

 写真1右の軸は巻子本(写真3〜5)。外題に「五臓六腑医書 要字抄出」「解剖書等」の仮題が与えられ、紙背には日蓮との関連が考えられる学僧、寂澄(一二二八〜一三〇一〜?)手沢の『菩提心論要文』が記される。関氏は当文書を石原氏の指摘により、具平親王『弘決外典鈔』(九九一)巻四第九を底本に多少の増減を試みたものとする。

 さて当文書には注目すべき点もある。第一は通行本『弘決外典鈔』との文字の相違で、しばしば当文書に妥当なものが認められること。『弘決外典鈔』には散逸した『明堂経』等からの引用文が多いので、当文書は『弘決外典鈔』の研究のみならず、『明堂経』の復原にも参照価値がある。第二は『弘決外典鈔』にはない中国馬医書の『安驥集』が引用されている点で、その日本伝来と受容を示すかなり早期の史料として注目していい。
(茨城大学人文学部/北里研究所)