←戻る      『漢方の臨床』49巻6号738-740頁、2002年6月(当文に一部補訂)

目でみる漢方史料館(168)

臓腑神農像     解説 真柳 誠


   私はいろいろな授業を学部生や院生にしているが、おもに一年次生向けの教養科目のひとつとして中国学入門を毎年半期担当している。これは私たち中国文化専攻に二年次からの学生を誘引する目的も兼ね、相当に魅力的な内容を授業しなければならない。一昨年の末ころ、その授業で神農伝説に触れ、日本では医薬関係者が神農像を崇拝してきた歴史のあることを述べた。すると授業後に、ある学生が自宅に古い神農像があるという。早速、拝見させていただきたい旨を両親に伝えてもらい、ようやく昨年五月に実見の機会をえた。

 ご自宅にうかがうと、敷地後方に新たに廟をもうけて座像が祀ってあった。その顔貌は神農の特徴を十分にそなえており、明治四十四年生まれの先代のときから神農像として伝えられてきたという。ただし文書や詳細な言いつたえはなく、どうも来歴がはっきりしない。像は不思議にも相当に年代のたった洋服を着せられており、それは御当主が幼少のころからで、脱がせた話を一度も聞いたことはなかったとのこと。もし当像に胎内文書があれば神農かの当否や来歴も分かるはずということで、きつく縫いつけられた着衣を脱がしてみて一同絶句した。文書はなかったが、臓腑と認めるしかない彩色した不可思議な構造が、露出した胎内にあったのである。

 本像は図1のように座高約六〇cmの座像で、四肢と頭部を胴体にはめ込む構造になっている。頭髪は麻繊維で、眉とヒゲにも同様の繊維を植え込んだ形跡がある。頭頂左右には先端がやや破損した角があり、つり上がった両眼はガラス製。両耳は欠損し、歯をくいしばり、やや開いた口には鋭い犬歯がのぞく。水平に挙げた右手は何かをつかみ、それを口に向けていたらしい。これは神農が赭鞭を嘗めている伝統様式に合致し、顔貌と角からしても本像は神農と断定できる。

 さて問題の臓腑構造は近代解剖学に基づくものではなく、中国宋代以降の伝統的内景図に近い。図2の右から順に、赤丸のある傘状が肺、その左上の赤い一段目が心、二段目が脾、その左の黄色が胃、その左上の薄紅色が小腸、その下の白色が大腸、大腸の上に右から重なる薄黄色のナス状が肝、その下方に右から延びる赤紫色が胆、左端の黒色が腎・膀胱・命門を表しているように思える。ただし彩色や形状に伝統的内景図と相異もあるため、確実な同定とはいえないだろう。なお腹部にかぶせる蓋に該当するものは伝存しておらず、臓腑周縁に蓋をかぶせる構造もないため、この臓腑は当初から露出して見せることが目的だったろうと判断された。神農像は湯島聖堂の木彫像を代表として、日本や中国に少なからずある。しかし、このような臓腑を備えた像の現存は前代未聞だった。

 本像の本体は木製で、紙を下貼りした上にやや白い顔料を塗るが、四肢や首が胴体と接合する断面には塗られていない。その部位を見ると、下貼りには江戸中期以降の刊本が反故として使われ、明治初期に流行した紺色の印刷罫紙に書かれた写本も一部に使われていた。なお本像所蔵者の先々代は明治二十八年生まれで、その代に家伝薬の製法と販売権をゆずり受けており、本像を所有したのもこの頃らしいという。以上からすると、本像の製作年代は明治前期頃と推定していいだろう。しかしながら本像が突然作製されたとも思われない。

 というのも山東京伝『昔話稲妻表紙』(一八〇六)に初代歌川豊国が入れた挿絵(図3、タイモンスクリーチ『江戸の身体を開く』より)の左奥に、胎内の臓腑を開いてみせる明らかな神農像が描かれているからである。また図4は慶應二年(一八六六)に描かれた現八王子の一角で、不鮮明だが人参五臓圓を売る店の奥に胎内の臓腑と肌を顕わにした女性の座像が置かれている。むろん五臓圓だから臓腑露出の像を展示するのだろうが、肌を顕わにした女性なのは、幕末から明治初期に流行した「生人形」と呼ばれるリアルな人体像の流れを承けている。

 人形師・松本喜三郎の作になる丸山遊女の生人形は、安政二年(一八五五)の興行で美しい肌を見せ、江戸中の話題となった。こうした性的な色彩が濃厚な生人形の見世物興行は、明治になると近代医学の人体解剖模型に姿を変えて見世物的に展示されたという。しかも国産の多くは生人形師による解剖模型で、その嚆矢は東大医学部前身の東校が明治五年に松本喜三郎に製作を依頼したものだった。彼が文部省の命で製作した模型は、翌六年のウィーン万国博覧会に出品されたほど精密だったという。当時の生人形師の写実レベルはきわめて高かった。

 今回紹介した臓腑神農像は、そうした生人形師による製作を窺わせるほどのレベルではない。しかし、そのモデルとなった臓腑神農像は必ずあり、おそらく江戸ないし東京の薬店で、客寄せに臓腑を露出していたことだろう。本神農像は、幕末・明治の日本にこうした医薬文化があったことを実証する、現存唯一の実物なのである。なお本像について多くの教示をいただいた畏友・長野仁氏に、心より深謝申し上げる。

(茨城大学人文学部/北里研究所)