←戻る      「漢方の臨床」45巻11号1386-88頁、1998年11月

目でみる漢方史料館(126)

北京図書館蔵、多紀元堅ら手沢の古医籍(二)          解説    真柳  誠



 

  前回は北京図書館所蔵の編号一二〇八二より、『黄帝内経明堂』と『黄帝内経太素』の江戸写本を紹介した。今回はもう一点の『黄帝内経太素残片』を紹介しよう。

  仁和寺の国宝『太素』はかつて多数の部分が虫損により断片化していたため、それら断片は『太素』が国宝指定で修復されたとき元の位置に貼り込まれた。この修復よりはるか以前に影写していたのが写真1の『黄帝内経太素残片』である。それゆえ断片の影写以後、修復時までのわずかな破損で読めなくなった文字を、本書で読める例が少なくない。なお後述するが、写真1の表紙題箋は多紀元堅の自筆である。

  写真2は本書の表紙を開いたところ。表紙の裏面には写真のように二紙が貼られ、右は間違いなく日本人のもの、左は中国人のものらしい。ともに本書と直接関連しない内容なので、あとで誰かが貼りつけたのだろう。写真2の右側は『太素』巻六の現存冒頭部分に貼り込まれている残片の、かつての影写である。現在の仁和寺本と対比するなら、以前は虫損部分でもまだ読める文字があったと分かる。たとえば大字で書かれた経文の第二行目、下三文字「謂之精」のうち「謂」と「精」が、今はもう判読できない。小字の楊上善注文にも同様の例は多い。ちなみに朱筆の書き入れは多紀元堅のものである。
 
 


  写真3は本書の奥書で、右には次のように記されている。

 天保十四年(一八四三)十月十五日、一校を了えた。本書は大医博士の福井丹波守(榕亭)が仁和寺所蔵の残本を影写し、片紙・零巻を拾い綴ったものである。ただし尾張(浅井家)の鈔本にはこれがないという。尚質(小島宝素)。

  さらに朱筆で「嘉永二年(一八四九)九月廿日校、元堅」と「同日移朱点」の元堅自筆校記がある。写真3の右側は森立之(枳園)の自筆奥書で、小字文は次のように記す。

 サイ{|+苣に似た字}庭先生(多紀元堅)の手沢本で、題箋と函扉の書ともに先生の遺墨である。尊保しなければならない。立之。

 また大字では明治己卯(一八七九)春分の日付で、次のように記している。

 この計二十四冊は小島宝素君が百計により模写したものを、さらにサイ{|+苣に似た字}庭先生が杉本要蔵に再影写させたものである。いま私の蔵書となったのも時勢であろう云々。

  以上より、本書は仁和寺残片→福井榕亭写本→小島宝素写本→杉本要蔵写本という転写のあと、多紀元堅→森立之と所蔵が移ったと分かる。このとき計二十四冊だったというので、前回の写真4・5で紹介した『黄帝内経太素』と一括本だったことは疑いない。さらに馮氏の景岫楼などを経て北京図書館の所蔵となったのだろう。

  本書によるなら『太素』虫損部の一部がより正確に読める。しかも元堅らが『太素』を調査研究していた様子も一層よく分かるようになった。まことに喜ばしいことである。

(茨城大学人文学部/北里東医研医史学研究部)