今春ようやく機会ができたので同館の善本古籍部を訪れ、日本人の手沢らしき書を申請してみたところ、あっさりと閲覧できる。予想にたがわない善本であり、 試みに貴重部分のカラー写真を申請すると、所定の経費で許可された。隔世の感とはまさにこのこと。それらを今回から紹介しよう。
北京図書館の目録に編号一二〇八二の「黄帝内経明堂注三十巻、隋楊上善撰、日本影抄古抄本、森立之跋、二十五冊、存二十三巻」が載る。楊上善の『黄帝内経
明堂』は十三巻本、かつ現存は巻一だけなので、この目録記載は不可解だった。実見して分かったが、本来は別な『黄帝内経明堂』『黄帝内経太素』『黄帝内経
太素残片』の三書を、誤って一書としている。
この本は宝素堂小島君の旧蔵書で、欄外に朱 墨で小さく記入するのは宝素君の自筆である。のち三松堂(多紀元堅の別号)の架蔵となったので元堅サイ{|+苣に似た字}庭の印記がある。いま寺田望南の 所蔵であるが、望南に懇求して遂に私の蔵書となった。明治十二年戊寅(一八七八)十二月八九(七十二歳)翁源(森)立之これより当写本は、小島宝素→多紀元堅→寺田望南→森立之と所蔵が移っていたことが分かる。
写真4は第二書、楊上善『黄帝内経太素』巻二の巻頭で、右下に森立之の印記がある。写真5はこの巻二の末尾で、左下に朱で「嘉永二年(一八四九)中秋元堅校」の元堅自筆校記がある。すなわち、この『太素』も多紀元堅と森立之の旧蔵書だった。むろん現国宝・仁和寺本からの江戸影写本である。
ところで、仁和寺本のみ伝存した『黄帝内経太素』には巻一が失われている一方、同じ楊上善の『黄帝内経明堂』は巻一のみ現存する。しかも北京図書館の両写
本は日本の装丁で類似している。それゆえ両本を同一書とする前述の混乱が目録に生じたのだろう。これらが同図書館に収蔵された経緯はまだ解明できないが、
両本にみえる馮氏の景岫楼という蔵書印記とともに引き続き考えてみたい。
なお第三書の『黄帝内経太素残片』は次回に紹介する。
06,10,6追記:当『明堂』と『太素』には「景岫/楼」「馮雄/之印」「南通馮氏景/岫楼蔵書」の蔵印記もある。これは南通の蔵書家、馮雄(一九〇〇〜六八、字を翰飛)のもので、蔵書室を「景岫楼」と号した。彼は唐山交通大学を卒業後、上海の商務印書館で編輯に十余年従事して水利を研究、多くの編訳書も出版した。のち蔵書を上海合衆図書館に献本した一方、一九五〇年代には北京の中国科学院に勤務し、全蔵書を北京に運んだともいう(『歴代蔵書家詞典』『文献家通考(清−現代)』ほか)。