今回紹介する整理番号ch3725の文書は横13・5 cm、縦20cmの断簡で、その表裏に『耆婆五蔵論』(写真1)の巻末と『諸医方髄』(写真2)の巻頭を、各々同一人が筆写している。ともに現存書はない。当現状からすると、本来は帯状に貼り合わせた料紙の表裏に両書を写した巻子本(巻物)で、その一端であることが分かる。かつて黒田源次氏が T2.,Y49として報告(「支那学」七巻四号、一九三五)した文書に該当するが、報告には図版がなく、釈文にもやや問題があった。そこで以下に全文を釈読し、比定すべき字を( )に入れておく。
写真1には「分右搗節(篩)為散一服方寸匕□□□□/如薬法五夢肺労則語声□(哭)渋心労/則腰疼痛傷心即吐血傷腎即尿血/傷肥宍(肉)即白骨疼悪寒盗汁(汗)傷腸/即洩□(痢)傷肺則語□不通傷肝即/眼膜暗
焉(耆)婆五蔵論一巻」と記され、五臓などの労と傷の症状を述べる。
書名の「焉婆五蔵論一巻」は『通志』芸文略や『宋史』芸文志に著録の「耆婆五蔵論一巻」に相違なく、宋代には現存したらしい。またわが国の『医心方』に引用される『耆婆方』との関連も疑える。耆婆は医術に明るい釈迦の弟子、Jivakaのことなので、仏教系の要素がある医書であろう。
なお唐代では太宗の諱「世民」を避け、世を曳、民を氏などに改め(『史諱挙例』)、顕慶二年(六五七)十二月には民を含む{民+曰}、世を含む葉の字まで改めた(『旧唐書』高宗紀)。すると文中で下痢をいう「洩」は本来「泄」だったかも知れず、耆婆の「耆」が「焉」に訛ったのは、耆と字形が似る{民+曰}から昏への改字が関係しているように思える。これらからすると、本断簡は唐代の筆写で、七世紀中葉以降の可能性が高い。
写真2には「諸医方髄一巻/夫天□(地)□(豎?)立之時□无異衆生福/重随身光明飢{ニスイ+食}淋{竹+騰}地味自然/粳米衆生受五欲楽君王有道无有/諍事衆生不識生老病□□□□/四足{ヤマイダレ+朮}梵云{伽口+羅}都伽時□□□□」とある。
書名からすると諸医方の精髄を集めた医書らしく、序文らしい内容は仏教系である。該当書は諸目録にないが、筆写は写真1と同時の唐代であろうから、これを『宋以前医籍考』が宋代の書に分類するのはどうも当たらない。