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真柳誠「目で見る漢方史料館(119) −松岡玄達自筆の浅井周伯講義録(一)」『漢方の臨床』45巻4号426-428頁、1998年4月

松岡玄達自筆の浅井周伯講義録(一) −龍谷大学所蔵の貴重書より−

解説    真柳  誠


  京都の龍谷大学は本願寺の学舎が淵源で、以前その蔵書から現存唯一の元『[家伝]日用本草』八巻本を紹介したが、日本の貴重書も少なくない。特筆すべきは十点におよぶ松岡玄達自筆の浅井周伯講義録で、将来大学者となる江戸前期の若者がいかに医学を修めていたかを知る好例といえよう。これらを龍谷大学大宮図書館のご好意により、二回に分けて紹介したい。

  玄達(一六六八〜一七四六)は初め儒を山崎闇斎と伊藤仁斎に学び、次いで稲生若水に本草を学んだ。のち本草学者となって吉宗の享保の改革に伴う国産薬の調査に加わり、力を発揮した。弟子には戸田旭山・小野蘭山がいる。以上がこれまで知られていた伝だが、玄達は十代後期に浅井周伯(一六四三〜一七〇五)に医も学んだことが、これら受講録より新たに明らかになった。周伯は岡本一抱らとともに味岡三伯門四傑の一人とされ、尾張医学館を主宰した浅井家の基礎は彼が築いた。

  さて写真1・2は外題に『難経本義記聞』と記す三巻三冊本で、写真1に「養志堂浅井周伯翁講談」「平安松岡直録」、写真2に「貞享三丙寅閏(一六八六)三月十三日」とある。養志堂は周伯の院号、松岡直は玄達のこと。つまり周伯四十四歳の『難経本義』の講義を、十九歳の玄達が筆録した書だった。

写真3は内題に『薬性記』とある一巻一冊本で、扉書に「周璞浅井先生講聞記」、書末に「貞享二乙丑(一六八五)冬十有二月五日/松岡玄達尚白書」と記される。したがって周伯四十三歳の講義を十八歳の玄達が筆録した書である。

写真4は扉書に『内経経脈口訣』、その上に貼られていた題箋内題に「十四経発揮講義」とある三巻一冊本。書末に玄達の「怡顔斎図書」印記と貞享三年三月四日の奥書がある。講義者の記述はないが、前述の『難経本義記聞』とほぼ同時の筆録、またテキストの『難経本義』『十四経発揮』はともに元・滑伯仁の著作なので、講義者は周伯に間違いないだろう。
 


 写真5の『医学正伝或問備忘記』一巻一冊は著者・筆写者の記述や印記がない。ただ書体は明らかに玄達の自筆、また外題の「医学正伝或問紀聞」からすると受講録らしいので、貞享年間に周伯の講義をうけたときのノートだろう。テキストの『医学正伝或問』は明・虞摶『医学正伝』巻一から、総論部のみ日本で抜粋・単行した当時の初心者向け入門書で、江戸前中期にかけて集中的に和刻された流行書だった。

写真6は外題に『運気論講義』とある一巻一冊本で、見返しに「養志堂講」、奥書に「貞享三兆摂提格之歳(一六八六)四月二十七日/立的大淵子記」と記される。これらと書頭首行の記述より、本書は周伯による宋・劉温舒『素問入式運気論奥』の講義を、玄達が貞享三年に記録した自筆本と分かる。

  以上の五点はともに玄達と周伯の学問、江戸前期の高い研究レベルを示している。また他に伝写本もなく、史料価値はきわめて高い。

(茨城大学人文学部/北里東医研医史学研究部)