←戻る       「漢方の臨床」44巻5号562-654頁、1997年5月

目で見る漢方史料館(108)

-宮内庁書陵部所蔵の古鈔本『千金方』-遣唐使将来本による唐代旧態本

解説     真柳  誠・小曽戸  洋


  唐代七世紀中葉に孫思バクが編纂した『千金方』ほど、後世に影響を及ぼし続けている中国医学全書はないだろう。しかし原本そのままが読まれ続けてきた訳ではない。転写の繰り返しで各種伝本を派生しつつ伝えられた後、北宋の一〇六六年に校正医書局が統一・改訂して初刊行し、世に広まった。この宋改本系統の現存最古版は鎌倉時代に渡来し、唯一日本に伝承された南宋翻刻本である。同版を江戸医学館が幕末の一八四九年に模刻出版し、さらにその版木は明治維新後に中国へ輸出され、一八七八年に上海ほかで印刷された。如上の経緯で、いま中国・日本で出版されている『千金方』のほぼすべては江戸医学館模刻の宋改本に基づく。これゆえ現在の流布本は宋改による大規模な改訂のため、唐代の旧姿を相当に失っている。

  一方、日本には遣唐使の将来本が伝えられていた。もちろん宋改以前の唐代旧態本であり、八九一〜八九七年頃の『日本国見在書目録』に著録され、九八四年の『医心方』ほかに引用される『千金方』が本系統に属する。その古鈔本が巻一のみではあるが、宮内庁書陵部に所蔵(五五八函九号)されている。巻末に多数の識語があり、それらより正和四年(一三一五)の和気嗣成手抄本に基づき、建治三年(一二七七)の和気仲景抄本で校訂され、永正から天正三年(一五七五)まで和気(半井)家にあって伝承・抄写されてきたことが分かる。こうした結果、写真のように多数のヲコト点(朱点)や書き入れがあるが、日本の名家伝写本の特徴として原文の改変はまずない。

  また写真1右上に吉田宗恂(一五五八〜一六一〇)の蔵書印「吉氏家蔵」の陰刻印記があるので、天正三年以降に吉田家へ所蔵が移ったらしい。さらに文政年間(一八一八〜二九)に書店の英平吉の手をへて、多紀元堅がこの巻一を購入した事情は森立之の『枳園漫録』に詳しい。のち多紀氏の聿修堂(江戸医学館)から維新後に帝室博物館、そして現在の宮内庁書陵部へと所蔵が移ったことは写真1の蔵印記からも分かる。なお天保三年(一八三二)には『真本千金方』の名が与えられ、松本幸彦の出資、多紀元堅の序により、オコト点までそっくりそのまま模刻された。

  本書の特徴は、なによりも唐代の面目を保っていることにある。たとえば写真2の後ろから二行目冒頭の「張仲景曰」以下写真3の序文末尾「此之謂」以前の全文は、『傷寒論』の仲景序文の前半に該当する。一方、宋改本『千金方』ではここが文体・語句ともより美文になっており、却って宋板『傷寒論』とほぼ合致する。すなわち仲景序文の旧態は古鈔本『千金方』によく保存されており、それを校正医書局が宋改本『千金方』・宋板『傷寒論』ともに美文に改めたと理解できよう。これを根拠の一つとし、じつは『康平傷寒論』の仲景序文が宋板『傷寒論』からの改作であることを、かつて宮下三郎氏が指摘している。

(茨城大学人文学部/北里東医研医史学研究部)