江戸期の医事風景 解説 真柳 誠
前々回は中国十一世紀の医事風景だったので、今回は江戸期に描かれた医事風景図を紹介しよう。
図1は西鶴『好色一代女』(一六八六刊)「美扇恋風」の挿絵で、眼科の看板と待合室を描く。看板は眼の絵の下に「くすし/女医者」とあり、女医の眼科を謳うが、女(め)医者もかけているらしい。待合室には菓子盆があり、縁側の菖蒲と庭が風流なのは目の養生と本文に記す。
目薬の看板にも眼が描かれた。図2は『絵本家賀御伽』(一六九一刊)の絵で、眼の絵の下に「御目くすり/入のこし/めうちん(妙珍)」、上には「朝夕に参る御堂の裏門て、目に染(しむ)はかり入のこし」とある。入のこし(入れ残し)は京都西御堂裏にあった西村屋弥左衛門が発売した目薬である。
図3は秀吉が茶を飲んだことで天下(殿下)茶屋と呼ばれた大坂住吉の天神の森にかまえた津田家天下茶屋・是斎の店で、『摂津名所図会』(一七九六刊)に載る。ケンペルやシーボルトも記録したほど有名だった和中散は、東海道筋の各店で本家を争っていたが、ここは「せさい(是斎)」で売り、街道筋の名物だった。かつPR上手で、図のように店先で薬湯をふるまっていた。これは前々回紹介した北宋首都の街角で売られていた薬湯の「飲子」とよく似る。口の渇きどめや暑気払いの薬湯らしく、当時ほかに枇杷葉湯や是斎和中散と競った定斎延命散が行商や街頭で立ち売りされ、夏の風物詩だったという。
図4は『名物かのこ』(一七三三刊)の挿絵で、屋敷方らしき女性が駕籠をとめ、「中條流婦人療治」の看板の横を入ってゆく。図では不鮮明だが、看板文字の両側に小さな字で「月水はやなかし(早流し)/けん(験)なくハ礼を請けず」、余白に「覚悟して、来ておそろしき水の月」とある。みな堕胎の暗喩で、中條流は堕胎専門のように当時思われていた。
図5は『北里花雪白無垢』(一八二二刊)の挿絵である。北里とは唐代から花街の意味で用いられ、江戸では吉原を指す。絵で門前の角行灯に記される朔日丸は、毎月朔日(ついたち)に服用すると妊娠しないという避妊目的の薬で、中條流で販売していた。行灯の側面に「女いしゃ、流水」とあるのは月水流しのもじりらしい。室内では苦しげな女性を女医が脈診しているようにみえる。中條流の女医は江戸だけだったという。
図6はシーボルトが第一次来日のとき、専属絵師の川原慶賀らに描かせた約二五〇点におよぶ博物図・道具図・風俗図のひとつ。彼の一八二八年の帰国には間に合わず、同僚のフィッセルがドイツに持ち帰り、のちロシアに渡り、いまペテルブルグの国立エルミタージュ美術館にある。絵は右側三人の中央・僧形が医者、左が針医、左側二人の左が薬籠持ち、右が針箱持ちらしい。当時は「医は意なり」をもじり、「医は衣なり」と揶揄されたほど服装や往診にも格式があったが、ともに従者一人なので町医なのであろう。