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『漢方の臨床』43巻10号1922-24頁、1996年10月

目でみる漢方史料館(101)

中国十一世紀の医事風景−『清明上河図』より          解説    真柳  誠


 医療は生活に直接かかわるだけに、かなり早い時代から絵画や彫刻の題材とされていた。中国でも古くは人面鳥身の針医が二世紀の画像石に刻まれていたが、今回は『清明上河図』より中国十一世紀の医事風景を紹介したい。

 この図は北宋全盛期の首都・ベン{サンズイ+丶+下}京(河南省開封市)の町並みと人々を、一〇二三〜一一〇〇年頃の張択端が精緻に描いた絵巻である。いま北京の故宮博物院にあるのが原本(長さ約五・三m)とされるが、鮮明なカラー写真がない。そこで明以来もっとも優れている、とされる呉子玉の臨摸本(香港・翰墨軒出版有限公司影印、一九九一)から北京原本と同寸で掲げた。

  図名の「清明」は伝統的祝日の清明節をいい、春分から十五日目、陽暦の四月五日前後にあたる。春の空気が満ちあふれる時期なので、いまも中国では郊外に出て遊び、また墓参りなどするが、当時は内城でも盛大に祝われていた。なお本図は郊外から描き出すが、図の後半が明代以降に欠落したため、内城に入り、にぎやかな街角を過ぎた直後で突然とぎれる。

 図1がその部分である。正面に「趙太丞家」と横書きで掲げた家があり、右の立て看板には「大理中丸養(医?)腸胃丸(冷?)」、左の立て看板二枚には「趙太丞統理男婦児科」と「治酒所傷良(真?)方集香丸」、左門柱の看板には「五労七傷回春丸」と書いてある。室内では女性に抱え上げられた小児を男性が脈診している様子で、これを後ろから女性が見守る。奥の机には書物らしきものがあり、その奥は百味箪笥だろうか。するとこれは薬店を兼ねた診療所を描いているらしい。老若男女から二日酔い、強精薬まで手広く扱っており、医者の服装も路上の人々といささか区別があるようで興味深い。

 これより少し手前の右下に描かれた街角が図2である。二頭のロバが引く車の右横路上に、札をぶら下げた二本の日よけ傘が立ち、手前の傘の札は「香飲子」と読める。傘の下には座った男性がおり、机をはさんで立つ男性は机上の碗に向かっている。また本図の前半で虹橋という有名な橋の付近にも、よく似た情景の図3がある。ここでは傘に「飲子」と読める札が下がり、傘下の店番と左の人物は何やら交渉しているようだ。すると図2の奥の傘の札も「飲子」だったに違いない。

 漢方家なら何々飲子という処方を見慣れているので気づくはずだが、「飲子」は以前、なんと「餃子」に誤読されていた。それが最近やっと周宝珠「釈『清明上河図』中的飲子」(『中原文物』、一九九六年一期)により飲子と判読され、元気づけの薬茶であると論証された。つまり当時の栄養ドリンク剤だったのである。これで図の情景がよく分かるようになった。

 こうした元気づけの飲子は唐代長安の記録にもあるし、いまも香港や台湾の下町街頭では同様の薬茶を煎じたてで売っている。日本では弘治四年成(一四九二)の 『桂川地蔵記』(尊経閣文庫本)に応永二三年(一四一六)からの京・桂地蔵の霊験と参拝ブームを題材とし、門前の薬湯売りの口上などを記す。この薬湯も同類だろう。人々が簡便な元気づけ薬を好むのは、今も昔も変わらないのだ。

(茨城大学人文学部/北里東医研医史学研究部)