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『漢方の臨床』43巻4号474-476頁、96年4月

目でみる漢方史料館(95)

国宝、『新修本草』仁和寺本            解説    真柳  誠


  国宝に指定されている医薬書は計五点ある。うち文化庁所蔵の半井本『医心方』以外の四点はみな京都・仁和寺の所蔵で、すなわち仁和寺本の『黄帝内経太素』『黄帝内経明堂』『医心方』と、今回紹介する『新修本草』がそれである。

  現存する中国最古の本草書は陶弘景が五〇〇年頃に編纂した『本草集注』三巻である。これは一〜二世紀の『神農本草経』文と以後の『名医別録』文を朱墨でモザイク状に書き分け、さらに「薬対」文と陶注を細字双行で加えていた。この三巻本が奈良時代以前に伝来しており、またトルファンから出土した断簡をベルリン国立図書館が所蔵することはすでに本欄で紹介した。のち陶弘景は『本草集注』を七巻本に改め、敦煌莫高窟から発見された七巻本の巻一を京都の龍谷大学図書館が所蔵することも本欄で紹介した。

  唐の顕慶四年(六五九)正月十七日、高宗の勅で七巻本『本草集注』を核に李勣・蘇敬らが増補・加注した朱墨雑著の『新修』二〇巻と、新たに編纂した『薬図』二五巻・『図経』七巻が上奏された。世界初の薬局方である。

  『新修』も奈良時代には伝来していた。杏雨書屋所蔵の旧仁和寺本『新修』巻一五に、「天平三年(七三一)歳次辛未七月十七日書生田辺史」の奥書があるからである。これが本書の伝来を証明する最古の記録。『続日本紀』の七八七年五月十五日条には典薬寮がテキストに『新修』の採用を上奏、『日本後紀』の七九九年二月二十一日条には和気広世が弘文院で『新撰薬経(新修)』等を講義、『日本紀略』八二〇年十二月二十五日条には『新修』を講読させる勅、『延喜式』(九二七)には「新修本草三百十日」の修学規定が記録される。

  このように本書は平安時代まで広く利用された。本書を援用するのは百科全書の『秘府略』(八三一)、漢和辞典の『新撰字鏡』(八九八〜九〇一)、薬名辞典の『本草和名』(九一八頃)、百科事典の『和名抄』(九二二〜三一頃)、医学全書の『医心方』(九八四)、具平親王の『弘決外典鈔』(九九一)、惟宗允亮の『政事要略』(一〇〇二)など枚挙に暇がない。

  いま仁和寺が所蔵する『新修』は巻四(図1・2)・巻五(図2)と巻一二・巻一七・巻一九の計五巻で、鎌倉時代十三世紀の巻子古写本。『新修』の断簡は敦煌莫高窟からも三点発見されており、それらには朱墨雑著を保存するものがある。仁和寺本は図のように墨筆のみで、淡墨界の楮紙に一紙一九行、一行一四〜一六字、細字注二六〜二七字詰で記されている。

  仁和寺本は尾張医学館の浅井正封が一八二七年に『太素』を筆写し、世に知られた。一八三二年には京都の福井家に流出していた『新修』巻一五を狩谷{木+夜}斎が筆写、一八三四年には正封の子の浅井正翼が『太素』巻三・九と『新修』の現存巻ほかを筆写。一八四二年には小島宝素が『新修』の巻一三・一四・一八・二〇を筆写したが、その原本のみは現在も所在が杳として知れない。

(北里研究所東医研・医史学研究部)