正倉院の『種々薬帳』 解説 真柳 誠
正倉院に唐代の薬物そのものが今なお保存されている。その多くは奈良時代の天平勝宝八年(七五六)六月二十一日、聖武天皇崩御の七七忌に孝謙天皇・光明皇后が東大寺盧舎那仏(いわゆる奈良の大仏)に献じ、同年建立の正倉院が保管したものに由来する。この科学的調査が一九四八~五一年、朝比奈泰彦博士を班長とする錚々たる研究者により行われ、一九五五年には報告書『正倉院薬物』の巨著が刊行され、世に明らかとなった。
さて当時それらを献上した献物帳(巻子)も正倉院に現存する。巻首に「盧舎那仏に奉る種々薬」(図1)とあることから、一般に『種々薬帳』と呼ばれる。今回はその全文を『正倉院薬物』より転載し、紹介することにした。全紙面には「天皇御璽」が捺印され、以下のように記されている。
奉 盧舎那仏種々薬/合六十種 盛柒(漆)樻(櫃)廿一合/麝香四十剤 重四十二両并帒(袋)及/裹小已下並同/犀角三箇 一重二斤十二両一分 一重一斤九両二分/一重一斤十四両/犀角一帒重六斤十三両并帒/犀角器一口 重九両三分/朴消七斤 并帒 蕤核五斤 并帒/小草二斤四両 并帒 畢撥三斤十五両 并帒/胡椒三斤九両 并帒 寒水石十八斤八両 并帒/阿麻勒九両三分 并帒 奄麻羅十五両 并帒/黒黄連三斤 并帒 元青一管 重四両二分/青葙草一斤十四両 并帒 白皮九斤六両 并帒/理石五斤七両 并帒 禹余粮一斤九両二分 并帒/大一禹余粮二斤十二両 并帒 竜骨五斤十両 并帒/五色竜骨七斤十一両 并帒 白竜骨五斤 并帒/竜角十斤 并帒 五色竜歯廿四斤 并帒/似竜骨石廿七斤 并帒 雷丸八斤四両 并帒/鬼臼十二両三分 并帒 青石脂六両 并帒/紫鉱六十斤 并帒 赤石脂七斤二両 并帒/右納第一櫃(以上図1)/
鍾乳床十斤 并帒 檳榔子七百枚/宍(肉)縦容卅斤 并帒 巴豆十八斤 并帒/無(没)食子一千七十三枚 厚朴十三斤八両 并帒/遠志廿斤四両 并帒 呵(訶)梨勒一千枚/右納第二樻/桂心五百六十斤 并帒/右納第三 第四 第五樻/芫花三百廿四斤二両 除帒/右納第六 第七 第八樻/人参五百四十四斤七両 并帒/右納第九 第十 第十一樻/大黄九百九十一斤八両 并帒/右納第十二 第十三 第十四樻/臈蜜五百九十三斤四両 并帒/右納第十五 第十六樻/甘草九百六十斤/右納第十七 第十八 第十九樻/芒消一百廿七斤八両 并帒及壺/蔗糖二斤十二両三分 并埦/紫雪十三斤十五両 并壼合子 胡同律 廿四斤 并壼/石塩九斤三両 并帒 猬皮三枚(以上図2)/
新羅羊脂一斤八両三分 防葵廿四斤八両 并壺/雲母粉九両 蜜陁(陀)僧八斤十両 并壺/戎塩八斤十一両 并壺 金石陵八斤一両 并壼/石水氷五斤 并壺 内薬一斤一両一分 并裹/右納第廿樻/狼毒四十二斤十二両 并帒及壺/冶葛卅二斤 并壼/右納第廿一樻/
以前は堂内に安置して盧舎那仏に供養す。若し病苦に縁りて用う可き者有らば、並びに僧綱に知らせて後、充て用うることを聴さん。伏して願わくは此の薬を服する者、万病悉く除かれ、千苦皆救われ、諸善成就し、諸悪断却し、業道に非ざる自りは長じて夭折する無く、遂に命終の後、花蔵世界に往生し、盧舎那仏に面し奉らしめ、必ず遍法界位を証得せんと欲するを。
従二位行大納言兼紫微令中衛大将近江守藤原朝臣 仲麻呂
従三位行左京大夫兼侍従大倭守藤原朝臣 永手
従四位上行紫微少弼兼中衛少将山背守臣万朝臣 福信
紫微大忠正五位下兼行左兵衛率左右馬監賀茂朝臣 角足
従五位上行紫微少忠葛木連 戸主(以上図3)
右のように六十種の薬物が、病人に施されることを目的に東大寺に献上されていた。この献薬は光明皇后と深く関連している。というのも献薬に先立つ天平二年(七二〇)、皇后の発願で救病施設の施薬院が皇后宮職とされた。また、当薬帳に署名した五人中、四人までが「紫微……」の官職を記し、これは皇后宮職ないしそれ以上の職務を持っていた紫微中台を指す。そして正倉院文書の御薬出蔵記録によれば、早くも献薬の年の十月三日には、人参五十斤が施薬院に施与されている。
こうした薬物の出蔵は他に東大寺の病僧や内裏に対しても行われ、その残余が主に現存の正倉院薬物ということになる。なお当薬帳に署名の藤原仲麻呂は光明皇后の甥で孝謙天皇の従兄、藤原永手は仲麻呂の従兄、巨万(コマ)福信は高麗(コマ)福信、賀茂角足は鴨角足、葛木戸主は和気広虫の夫で和気清麻呂の義兄である。