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『漢方の臨床』42巻7号794-796頁、1995年7月

目でみる漢方史料館(86)

福井・三崎家の宝蔵品−越前版『俗解難経』      解説    真柳  誠・小曽戸  洋


 福井の三崎家は安土桃山時代から続く代々の医家。現在、福井県医師会理事もつとめられる三崎裕康氏がその第十七代目御当主である。初代の三崎安指は朝倉高景を祖とする三段崎氏安景の嫡男で、越前一乗谷の戦国大名・朝倉孝景に迎えられた僧医・谷野一栢の養嗣として医を伝えられ、これより段の一字を略して三崎氏と改めた。谷野一栢については本欄第30回で紹介したが、本年五月に金沢の多留淳文先生に同行させていただき、三崎家に宝蔵される一栢ゆかりの品々の実見が叶った。今回と次回、三崎裕康先生のご好意でそれらの一端を紹介しよう。

 さて一乗谷では、谷野一栢が朝倉孝景の命で本邦第二の医書印刷を天文五年(一五三六)になした。これは明の熊宗立が正統三年(一四三八)に著した『勿聴子俗解八十一難経』の成化八年(一四七二)版を底本とした復刻である。本書の中国版は世界に内閣文庫蔵の成化八年版しかないと思われ、これをみると黄色竹紙の小型本(半丁匡郭約縦18.4×横12cm)で、いかにも坊刻らしい安価なつくりである。一方、当越前版の現存もきわめて少ない。三崎家の越前版は保存が大変よく、馥郁たる古雅があり、料紙は純白で墨色ともに江戸刊本に類をみない。半丁の匡郭も約縦22.6×横18cmのやや大型本で、字体ともに李朝版の風があり、朝倉氏の文化と財力を示している。底本とされた成化八年版はその風格において越前版にとうてい及ばない。のみならず越前版は内容的にも優れている。

 かつて越前版の跋文より一栢が文字・句読を校正したことが知られていたが、この様子やそれ意外の具体的なことは分からなかった。いま越前版と内閣文庫の成化八年版を対比すると、俗字等が相当に訂正されていた。さらに写真1の越前版で熊宗立序文の頭注に「書曰、旁求俊彦啓迪後人云々」とあるのは、一栢の付加であった。これは序文一行目の「啓迪後人」に対する注で、『書経』太甲上篇が出典であることを示す。もちろんこの「啓迪」こそ曲直瀬道三の『啓迪集』や啓迪院の出典であり、道三が越前版の当部分から自己の書名や塾名に転用することを思いついた可能性は年代的にもきわめて高い。

 写真2右のように越前版に前付される図説篇の後半には、経絡ごとの流注や五行穴の部位説明と図が計十二あり、前半の図説とは雰囲気が異なっていた。これを成化八年版は欠くので、やはり一栢の作成・付加にかかることが分かる。写真2左側は越前版の刊行跋文である。写真3右は越前版、は同じく三崎家蔵の江戸初期版で、ともに扉裏に熊宗立らしき人物を描き、左は樹木の位置と幹の形が簡略化している。成化八年版はこの絵がないので、越前版の付加かも知れない。なお越前版・江戸初期版および元和年間頃の古活字本には訓点と送り仮名がない。のち元和三・寛永四・寛永十・正保二・江戸前期にも復刻されて計八種の和刻本があり、一栢の功績で本書は江戸前期にかなり流行した。中国でも江戸前期版が最近復刻され、ようやく本国でも普及している。

(北里研究所東医研・医史学研究部)