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真柳誠「目で見る漢方史料館(79)敦煌本『本草集注』」
『漢方の臨床』41巻12号1522-1524頁、1994年12月

敦煌本『本草集注』


 現存最古の中国本草はトルファン出土の『本草集注』で、かつて本欄に紹介した。今回は第二に古い現存書、京都の龍谷大学に宝蔵される敦煌本『本草集注』を紹介しよう。

 
 
 

  大谷光瑞の命で明治四十一年(一九〇八)から中国西域・中央アジアを探険した橘瑞超らは、明治四十五年二月二〜四日頃、敦煌の莫高窟で発見された多くの文物を購入。当巻子の『集注』巻一序録部一軸もその一つである。巻末には写真1のごとく「開元六年(七一八)九月十一日 尉遅盧麟/於都写本草一巻 辰時写了記」の識語があり、盛唐八世紀の写本と分かる。五〇〇年頃に陶弘景(隠居)が編注した本書の実物は、他に六朝ないし初唐写のトルファン本のみで、もちろん両本以前の中国本草書は何ひとつ実物がない。ただしトルファン本は三巻本と目され、その残紙わずか一枚。他方、敦煌本は七巻本の巻一ほぼ全文で、情報量は比較にならない。

 この全体は五一紙を貼り継ぎ、二八×一九九七cmの巻子仕立。用紙は唐の官庁文書に使われる良質の楮紙(二八×四〇cm)で、ヘラで押目罫がひかれている。巻頭の三二文字を欠くと推定されるが、以下は巻末まで識語を除き七二〇行を存する。
 
 
 
 
 
 
 
 

 一方、写真2の右側に見えるように、巻末に近い第四六〜五〇紙の五葉は紙質が違う。ここは「薬対」部分に該当し、あたかも写し終った後、訂正のため第四五紙の大部分を切り取り、当五紙を補入したように見える。当部分も同筆であるが字詰が異なり、紙質も落ちる。写し忘れの単なる補入か、七巻本『集注』の成立過程を何か示唆するのか定かでないが、あるいは今後の論議を呼ぶかも知れない。

 ところで当本の紙背には写真3のように、太一山沙門釈道宣述の『比丘含注戒本』が写されている。唐政府は『集注』に増補した『新修本草』を六五九年に完成させたので、のち無用となった当本の紙背が利用されたのだろう。この『戒本』は『集注』巻末の紙背を逆に巻頭として写し始めたが書ききれず、さらに『大智度論』巻五十の紙背を継いで完成している。このとき『集注』の第一紙、つまり本来の巻子の外側部分は傷みがあったためか、 一葉の大部分を切り落して『大智度論』を継いだ。それで『集注』は巻頭の三行ほどを欠いたらしい。

 かつて羅振玉は当敦煌写本の写真を地理学者の小川琢治(一八七〇〜一九四一)より借用し、模写して『吉石庵叢書』初集に影印(一九一四)したが、第六六行を脱落するなど完全な模写とは認め難い。また『吉石庵』本を范行準が群聯出版社より再影印(一九五五)したが、やはり第六六行を脱落している。このようなことで敦煌本『集注』実物の影印が永らく望まれていたところ、近年内に龍谷大学より出版されるという。朗報である。今回掲載の写真を御提供いただいた龍谷大学図書館にも深謝申し上げる。
 

(北里研究所東洋医学総合研究所・医史学研究部)