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真柳誠「目で見る漢方史料館(64) 現存最古の中国本草−トルファン出土の『本草集注』 」
『漢方の臨床』40巻8号1082-84頁、 1993年8月

―現存最古の中国本草―

トルファン出の『本草集注』



 

 東西ドイツの統合により、今回と次回のカラー写真がやっと入手できた。ここ約半世紀、存否すら不明だったトルファン出土品である。写真1はその一つ巻子本『本草集注』の残紙で、現存最古の中国本草。かつ幾多の点に『集注』の原姿を伝える特級品である。

 さて百年ほど昔、ローラン・トルファン・敦煌など中国西域は考古探検のメッカだった。英・仏・独・露・米・日・中の各隊は、そこで大量の遺物を発見している。なかでもペリオ・スタインらの敦煌文書はよく知られているが、西域出土文献は他にも多い。その一つ、ドイツのグリュンヴェーデルとル・コック(写真2・3)らが、 一九〇二〜一二年の四回の探検で得た品々は、ベルリンのプロイセン学士院に収蔵された。


 同院でこの内の漢文医書四種を撮影した満洲医大東亜医学研究室の黒田源次氏は、その研究を「支那学」七巻四号(一九三五)に報告。ただし掲載写真は二種のみで、不鮮明な白黒だった。当報文は誤読・失考が多いが、のち現物の所在不詳により、訂正は困難であった。すなわち同院は戦後に東西ベルリンに分割され、西側には医書類がないので東側に問い合わせたが不明とのこと。実は東ベルリンの科学院にあったらしい。いま全トルファン文書がベルリン国立図書館に移管となり、六十年ぶりの再紹介が叶えられたのである。

 この『集注』は陶弘景(四五二〜五三六)が五〇〇年頃に編纂し、中国主流本草の根幹を築いた書。そして写真のように、『神農本草経』と『名医別録』の文を朱と墨で区別、「薬対」文と注文を細字双行としていた。現存の『集注』は他に一点だけ、敦煌莫高窟で大谷光瑞隊の得た序録部巻子一軸が龍谷大図書館にあるが、それには朱墨の書き分けがない。のち六五九年に唐政府が七巻本の本書を核に増補した『新修本草』も朱墨雑書を踏襲したが、仁和寺伝存の国宝『新修』ではこれを失っている。

 では朱墨雑書の原姿を保つトルファン本は、いつ頃の写本だろうか。見ると「主治」「世呼」「世不復識」「世中」などの語がある。治は唐の高宗帝・李治、世は大宗帝・李世民の諱なので、唐政府の『新修』は当該字を避諱で「主」「俗呼」「俗不識」「俗中」に改めていた。すると、この避諱がないトルファン本は唐より前の筆写とも疑える。ただし東野治之大阪大学助教授の御教示によると、六朝期の書風は残るものの早くて隋末、やはり唐初の筆写が穏当ではなかろうかという。

 一方、日本は七〇一年の大宝令で『集注』を医生・薬園生の教材とした。じじつ藤原宮(六九四〜七一〇)遺跡で、「本草集注上巻」と記す木簡が出土している。さらに「上巻」とあるので、かつて岡西為人氏が否定した三巻本『集注』の実在を推定しうる。他方、黒田氏はトルファン本を縦横27×28・5cmと記すが、実測では27・8×27cm。これと注が細字双行の点、および字数計算によると、トルファン本は三巻本の可能性が高いと推定された。

 偶然とはいえ中国をはさむ東西で、三巻本『集注』の証拠が出土していたのは実に興味深い。トルファン本の出現は、中・日の医学交流史にも一条の光を投げかけたのである。
 

(北里東医研・医史学研究部・医博)