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『漢方の臨床』39巻12号、92年12月

目で見る漢方史料館(58)

喜多村直寛による『医方類聚』の復刊   解説  真柳  誠


  李氏朝鮮の一四七七年に出版された『医方類聚』初版は三〇組だけで、前々回の本欄では、わずか一組が多紀元簡の所蔵にのみ帰したことを述べた。日本の復刻版により湮滅を免れた中国医書は数多いが、『医方類聚』にも同様の経緯がある。そこで今回は喜多村直寛(一八〇四〜七六)による本書の復刊と、その後日談を紹介しよう。

  直寛は多紀氏江戸医学館に奉職した医官で、彼の医学業績はよく知られている。その一方、直寛は実に一七種もの私家版木活字本を出版し、この面で江戸後期最多の出版者であった。かつ巻数でも江戸後期の三大木活字本のうち、二書までが直寛版に指を屈せねばならない。その一つこそ、多紀氏蔵の朝鮮版による『医方類聚』二六六巻の復刊である。

 しかし、かくも大部な書の出版には相当な資金が必要であった。直寛の復刊決意を知った同志がこぞって醵金したことは、多紀元堅の医方類聚序に記されている。さらに森潤三郎(鴎外の弟)の報告によると、直寛は嘉永五年(一八五二)三月の願い書で将軍御手元金から百両を拝借、翌年から毎年十両ずつ返済していたのである。一八五二年四月、かくして本書の出版が開始された。写真1はその扉で、直寛の書室「学訓堂」と活字版の中国式雅称「聚珍版」が記されている。

  一方、多紀氏蔵の朝鮮版は全体で計十二巻が欠けていたので直寛は渋江抽斎に請い、諸書を参考に欠落をある程度補足してもらったことが元堅の序に記されている。こうして十年後の文久元年(一八六一)二月、本書の復刊がようやく完結した(写真2)。朝鮮の初版から約四百年、直寛の尽力で第二版が日本に誕生したのである。ただこれも日本・中国・韓国・台湾に計十組ほどしか現存しないので、多数は印刷されなかったらしい。ちなみに直寛は二種の用紙で印刷しており、写真3の浅田宗伯旧蔵本は薄様の雁皮紙、写真4の山田業広旧蔵本は普通の厚様楮紙である。

  さて明治九年(一八七六)二月、日本と李氏朝鮮政府の修好条約が締結された。直寛はそこで朝鮮に出向する外務理事官の宮本小一に託し、格好の礼品としてこの『医方類聚』と自著数部を朝鮮政府へ贈呈したのである。宮本小一は浅田宗伯の患者名に見えるので、宗伯を介して面識があったのかも知れない。自国に久しく失われた『医方類聚』に再会した朝鮮の医官らは、直寛の義挙を大いに賛えたという。しかし贈呈手続書と朝鮮政府謝辞の写し(写真5、6)が下賜されたのは、直寛が同年十二月九日に卒した後であった。
  この直寛贈呈本をもとに、その後の日本支配下でも出版が二回計画されたが、戦火で断念を余儀なくされたという。しかし戦後の一九六五年、韓国の東洋医科大学、いまの慶煕大学は総計四八九三名を動員して直寛版を模写。これを出版したので本書はやっと自国で広く利用されるようになった。なお北京の人民衛生出版社も直寛版に基づく活字本を一九八二年に出しているが、その一〜四冊目は内容の一部を荒唐無稽との判断で削除。しかも全冊にわたり各書の引用語句を通行本で改悪するなど、著しく面目を失なっている。
(北里東医研・医史文献研究室、医博)