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『漢方の臨床』39巻10号、1992年10月

目で見る漢方史料館(56) 現存唯一無二の『医方類聚』初版

宮内庁書陵部に蔵せられる朝鮮古活字本  解説  真柳 誠


 朝鮮医書を代表する『医方類聚』全二六六巻は、中・朝・日の三国において最大の巻数を誇る大医学全書である。かつて本書は久しく世に隠れた秘本中の秘本、しかも孤本であった。今でこそ韓国・中国の復刻版で披見も容易であるが、ここに至るには、朝・日・中にわたる数奇な伝承経緯がある。三木栄氏の研究に基づき、これを次号と二回に分けて紹介しよう。

 明初の永楽五年(一四〇七)、大百科全書の『永楽大典』二二八七七巻・目録六〇巻が勅撰された。李氏朝鮮の時これに倣い諸書の類纂が企てられ、その医部として編刊されたのが『医方類聚』という。本書は金礼蒙ら文官・医官が命をうけ、世宗二十五年(一四四三)より編纂を開始。同二十七年(一四四五)十月に三六五巻の稿が成った。

 さらに世宗五年(一四五九)からは、儒者で医方に通じた梁誠之を監領に任じて厳格な校正事業がなされ、同十年(一四六四)九月に本書の撰集が完成した。しかし厖大かつ錯誤の許されない書ゆえ刊行は遅れ、成宗八年(一四七七)五月に二六六巻として三〇組が進上されたのである。

 この三〇組が李氏朝鮮期ただ一回の出版で、いま宮内庁書陵部にのみ一組二五〇巻二五二冊が現存する。これは写真1のごとく毎冊首に、「医学図書」「躋寿殿書籍記」「多紀氏蔵書印」「大学東校典籍局之印」「浅草文庫」「帝国博物館図書」「宮内省図書印」が捺されている。つまりもと多紀氏江戸医学の蔵書で、明治維新後より大学東校→官立の浅草文庫→上野の帝室博物館→宮内省に移管され、現在に至っている。では多紀氏にはどう伝えられたのか。多紀元堅の『時還読我書』巻下は次のように記す。

医方類聚は朝鮮国の医書なり。さきに仙台の医、工藤平助の家に蔵して伝えいう、加藤清正の掠帰するところと。先教諭(元簡)重資を以て購い得て、深く宝重したまえり。云々
 一方、江戸校勘学の鼻祖・吉田篁燉の書簡集には、奈須玄真(恒徳の養父)宅で工藤平助(伊達藩江戸表の儒医)より本書の所蔵をきき、多紀元簡への譲渡を仲介したと記す。つまり文禄の朝鮮侵略(一五九二〜九六)で加藤清正軍の略奪した本書が、工藤家の所蔵を介して多紀家に伝えられたのである。実録活字でわずか三〇部が印行された本書は、このようにして一部のみ日本に伝承された。

 さて写真2に『千金方』と記すように、本書は中国医書の引用文を類集する。一五三種以上のこれら引用書は唐・宋・元・明初にまたがり、うち四〇種ほどはすでに現存しない。また現存書でも、本書の所引底本は逸伝した古版本の場合が多々ある。それゆえ散逸書の復原、古医籍の校勘にすこぶる有用で、幕末の考証学者は本書を存分に利用・研究した。さらに巨費を投じて復刻され、この復刻書が明治の日朝修好条約締結時に美談を添えたのである。次回はそれを紹介したい。

(北里東医研・医史文献研究室、医博)