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『漢方の臨床』39巻7号、1992年7月

目で見る漢方史料館(53)

江戸本草学の大家、稲生若水の墓誌    解説 真柳誠・杉立義一


 京都左京区の迎称寺(写真1)にある稲生家の墓より、石函に収められた珍しい計四枚の墓誌(写真2)がこのたび発見された。このことは朝日新聞(東京版四月二十日)の報道で御記憶の読者も多いと思うが、河井義勝住職と稲生家の御好意により鮮明な各写真を紹介しよう。

 稲生若水(一六五五〜一七一五)は江戸中期の名高い本草家。名を宣義、字は彰信といい、若水と号した。江戸に生まれ、儒医の父正治(恒軒、一六一〇〜八〇)に医を学び、少時より本草の学を好んだ。一六九三年に加賀藩主・前田綱紀の儒者に召され、このときより姓を中国風の一字で稲と称している。前田公の命により大博物書『庶物類纂』一千巻の編纂に着手したが、三六二巻まで完成し、正徳五年、京都北大路の家で没した。本書はその後も子息の稲生新助や弟子の丹羽正伯らが吉宗将軍の命で増修を続け、全国の物産調査にもとづき計一〇五四巻として完成し、幕府に納められた。若水には本書の他、『炮炙全書』四巻など多くの著がある。門下からは丹羽正伯・野呂元丈・松岡玄達など名だたる本草家が輩出し、当時の殖産興業と博物学の隆盛を大いに促した。

 さて墓誌とは死者の事跡を後世に遺すため、金石に記して墓側に埋めるもの。文末に韻文の銘を付加すると墓誌銘という。中国に起源があり、古く日本でも行われたが、のち墓石に直接彫る墓碑文が一般化し、近世としての発見例は少ない。

 写真3(大画面は若水と弟の正路が父にあてた「恒軒先生稲生君墓誌銘」の表面で、これは約50×25cmの青銅板製。母にあてた「孺人河瀬氏墓誌銘」も同様である。恒軒は宮津侯に仕え、『螽斯草』の著がある。はじめ大坂の天竜院に葬られたが、若水が加賀藩に仕官したのちの元禄九年(一六九六)に迎称寺へ改葬したとき作製されたものである。ともに撰文と書は若水の友人で儒者の伊藤東涯(伊藤仁斎の長子)の手になる。東涯の門から松岡玄達が若水に師事したのも、両人の縁があってのことといえよう。

 写真4は玄達の撰になる「稲若水先生墓誌」の表面で、約14×24cmの青銅製。裏までつづく誌文には、一七一一年に来日した朝鮮通信使の製述官李東郭が『庶物類纂』を一見し、古今いまだかつてない広博明備を嘆じたという逸話も記される。この誌文はこれまで知られていなかった。

 写真5も新出の史料で真鍮製。一七〇五年没の長男元二に若水が手向けたもの。賢く物覚えが人よりすぐれ、必ずわが家系を興すと喜んでいたのに、わずか二歳で夭逝してしまった。「鳴呼、哀哉」「稲若水、泣誌」と結ぶこの誌文は、人の心を打たずにおかない。江戸本草学の礎を築いた若水の、時代をこえた親としての一面をうかがわせよう。