←戻る        『漢方の臨床』38巻7号、1991年7月

目で見る漢方史料館(41)

薬種切手   解説 真柳 誠


 前々号の本欄で日本銀行貨幣博物館所蔵の江戸銀貨、「人参代往古銀」を紹介した。今回も同館所蔵品より、江戸の一時期に使用された「薬種切手」と呼ばれる一種の紙幣を紹介しよう。

 わが国の紙幣は慶長十五年(一六一〇)頃、伊勢山田地方の商人が秤量銀貨の釣り銭がわりに発行した「山田羽書」が最古と考えられている。この流通時期は、イギリスの金匠手形(一六四〇頃)よりも早いという。その後、江戸の各藩では財政赤字の補填や幕府貨幣の不足緩和などの目的で、幕府貨幣との引換えが原則の、いわゆる「藩札」を発行していた。しかし幕末には金貨の悪鋳・増鋳に加え、幕府は対外交易用の高額紙幣を開港地で発行。諸藩も藩札を乱発したので、流通貨幣の膨張からインフレを招き、それらは明治四年(一八七一)に禁止されるまで流通していた。

 江戸期にはまた商品経済の発達に伴い、近畿地方を中心に商人や商業組合などが私札を発行した。これら商人札は一種の信用証券で、主に発行者と密接な関係のある得意先だけに通用するものであった。その一つに、問屋などが仕入代金の延払に発行した約束手形がある。「薬種切手」はこの一種で、薬種問屋が生薬産地への支払に使用したと考えられている。

 写真1は京都の売薬金主・御用達の石田清輔が発行した「石田札」。銅版印刷で上段が表面、下段が裏面である。右より銀一匁・銀五分・銀三分・銀二分の各札。表面の上に神農像が描かれ、裏面に「慶応丙寅(一八六六)」「表書の通り引替相渡し可申候」「南都出張」「出張詰所」「和洲引替所三組」などが記してある。つまりこれらは一八六六年に発行され、両替商三店の奈良支店で正銀と兌換されたものと考えられる。

 写真2は京都の薬種組合が発行したと考えられる「和州産物薬種売買手形」。石田札と同じく一八六六年の発行で、表(上段)に大黒天、裏に神農が描かれている。右より銀一匁・銀一匁・銀五分。それぞれ「此手形持来次第、引替相渡シ可申候」と記され、和州(奈良)の引替所印などがあるので、京都の薬種組合と契約がある奈良の両替商で銀に兌換されたのであろう。

 薬種切手はこのように京都の薬問屋と奈良の産地問で流通し、外にもデザインが異なる数種がある。しかしこの時期以外や、他地方でも同類が発行されていたかは未詳である。

 写真撮影と掲載を御許可いただいた日本銀行金融研究所、ならびに御教示いただいた貨幣博物館の小林博氏に深謝申し上げます。

(北里研究所附属東洋医学総合研究所・医史文献研究室)