←戻る         『漢方の臨床』38巻4号、1991年4月

目で見る漢方史料館(38)

人参代往古銀    解説 真柳 誠


 かつての千円札(伊藤博文)や五千円札(聖徳太子)の裏で見覚えがある東京日本橋の日本銀行本館。その正面に日本銀行貨幣博物館がある。今回は当博物館所蔵品より、江戸の一時期、朝鮮人参の輸入に使用された「人参代往古銀」と呼ばれる銀貨を紹介しよう。

 江戸の鎖国体制下、例外として長崎での対オランダ・中国交易はいうまでもないが、対馬藩を介した朝鮮との外交・貿易はさほど知られていない。この朝鮮交易の全盛時代(七世紀末〜一八世紀初)、輸入品の筆頭は中国産の上質生糸。次いで朝鮮人参が30%弱を占め、それらの対価は日本の銀貨で決済されていた。ところで家康が一六〇一年に発行した慶長小判(金84%)や慶長丁銀(銀80%)は高純度だったが、幕府は一六九五年より悪鋳を開始。一七〇六年からはこれが銀貨に集中し、宝永四ツ丁銀では純度20%にまで落ちている。

 このような劣悪銀貨は当然ながら朝鮮側に拒絶され、貿易を独占していた対馬藩は人参の輸入途絶を慕府に訴えた。そして老中の命が下された。人参代の決済名目で、往古の慶長銀と同純度の銀貨を幕府の負担で特鋳することである。それゆえ「人参代往古銀」という。ただしこの名は日本のみで、対馬藩は「特鋳銀」と記した上包みに取り替えて朝鮮側に渡している。また朝鮮は中国から輸入した生糸代などを本銀貨で決済したので、北京までの交易ルートでは「特鋳銀」の名で知られていた。京都の銀座で鋳造された本銀貨は、したがって対馬→朝鮮→中国(北京)と流通したが、日本国内では使用されていない。

 写真は宝永期に鋳造の本銀貨で、長さ八・四cm。一枚に九〇gの銀を含む。表には劣悪な宝永四ツ宝銀と同式の大黒像に隣合せ、「寶」字の極印を特別に打ち、通用銀と区別してある。一七一〇年より約一九五〇〇kgが鋳造されたが、一七一五年に通用銀が良質になると中止。通用銀がまた劣位になった一七三七年にも特鋳を許可されたが、額は少なかった。その背景には、吉宗将軍による殖産興業政策がある。

 世界初の人参栽培と結実に、佐渡で成功したのが一七二五年。日光ほかで増産された種子を、「御種」の名で民間が販売したのは一七三八年から。邦産人参が市場に出まわり始めたのは一七四六年頃のことである。また同様に、良質の生糸も国産化されていった。したがってこの頃より日朝貿易は方向転換を迫られ、本銀貨の役目も終りを迎えた。

 なお貨幣博物館は本銀貨を常時展示しており、入館は無料であるが、電話予約(〇三−三二七九−一一一一)が必要。写真掲載を御許可いただいた日本銀行金融研究所、御教示いただいた慶應義塾大学の田代和生氏と貨幣博物館の小林博氏に深謝申し上げます。

〔参考文献〕
(1)土屋喬雄ら『図録日本の貨幣4』、東洋経済新報社(一九七三)。
(2)田代和生『近世日朝通交貿易史の研究』、創文社(一九八一)。

(北里研究所附属東洋医学総合研究所・医史文献研究室)