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真柳誠「目で見る漢方史料館(30)現存する日本第2の医書印刷の版木
−越前版『俗解八十一難経』」『漢方の臨床』 37巻4号360-362頁、1990年4月

現存する日本第二の医書印刷の版木‐越前版『俗解八十一難経』‐

解説 真柳 誠・小曽戸 洋

 学問は書物に集約される以上、その普及と伝承に印刷のはたす役割は大きい。日本最初の印刷医書である阿佐井野(あさいの)版『医書大全』(一五二八年刊)は、すでに本シリーズでも紹介した。その八年後の室町・天文五年(一五三六)、二番目の医書印刷が越前で行われた。しかも驚くべきことに、この印刷に用いられた版木(ハンギ、文字等を裏返しに彫った板)が数奇な運命を辿り、四五〇年後の現在に伝えられている。今回はこれについて紹介しよう。

 戦国大名の朝倉氏は越前の一乗谷に本拠地を構え、天正元年(一五七三)の織田信長による焼打ちまで約百年間、五代にわたり越前を支配した。福井市郊外の一乗谷朝倉氏遺跡から、『湯液本草』の焼片が出上したことも本シリーズで紹介したが、この地こそが日本第二の医書出版地である。

 さて越前への要衝たる敦賀。その西郊に、北陸の名刹として偉容を今日も伝える西福(サイフク)寺がある。そして同寺の宝物殿に、問題の版木(写真1)が保存されているのである。現存するのは横に細長い版木六枚で、表と裏の左右に各二面を彫るもの四枚。表のみ二面を彫るもの一枚。表に一面のみ彫るもの一枚で、計十九葉分からなる。福井県はその貴重性に鑑み、昭和四十年に県の文化財に指定した[1]。

 版木の由来は『粟屋勝久戦功記』[2]に見える。これは敦賀にほど近い国吉城主・越中守勝久の記録で、信長の軍門で一乗谷を攻めた勝久が、戦利品の版木を西福寺に寄進したとある。現在の西福寺で最古の阿弥陀堂(写真2)も、文禄二年(一五九二)に一乗谷から移したもので、やはり福井県文化財に指定されている。

 ここで話をもどそう。一乗谷では四代目朝倉孝景(たかかげ)の時(一五一二〜四八)、文化的にも最盛を迎えていた。当時、招かれた文人や公家は数多く、先の阿佐井野版『医書大全』に跋文を寄せた学僧の幻雲(月舟寿桂)もその一人。この孝景の命で、本邦第二の医書出版がなされた。担当者は幻雲とも親交のあった谷野一柏である。当越前版『俗解難経』には、一柏門人の釈尊芸による、次の天文五年(一五三六)の跋文が付刻されている。

 越前一乗谷艮位一里ばかり、山ありて高尾という。その麓に寺あり、人号して高尾寺という。寺に堂あり、安ずるに医王善逝尊像を以てす。太守日下氏宗淳公(孝景)、一柏老人をして熊宗立が解す所の八十一難経の文字・句読を校正せしむ。しかして工を募り梓に鏤し、以て本堂に置く。蓋し国を医し、民を救うの意ならんや。
 つまり版木はもと高尾寺の医王像を祠った本堂にあったらしい。現在も一乗谷からほど近い足羽町高尾の山中には、行基作の薬師如来を安置する薬師神社があり、高尾寺の跡とわかる。その傍には土地の人がオンバサマと呼ぶ谷野一柏の木像(写真3)が祠られ、近くには一柏が製薬に用いたという亭(チン)の水が流れ落ち、一柏の屋敷跡もある。
 谷野一柏(生没不詳)はもと南部僧。渡明して医を修めて帰国後、関東から畿内に移った。名医和気明重も師事したほど学名高く、孝景の招きで一乗谷に享禄二年(一五二九)前に移り住む。ここで還俗し谷野雲庵と改め一柏と号し、医を三崎安指、宗門の法を釈尊芸につたえた。
 ちなみに先に紹介した一乗谷出上の『湯液本草』焼片は、筆者の検討で熊宗立の刊本を写したことが新たに判明した[3]。そしてこの越前版『俗解難経』も熊宗立の注釈本。さらに阿佐井野版『医書大全』は熊宗立の撰である。これらは室町末期の中国医学受容を考える上で、興味深い事実といえよう。

謝辞:貴重な版木の撮影を許可下された西福寺および御執事の甫里定圓氏、調査と撮影に便宜と助言をいただいた朝倉氏遺跡資料館および主査の佐藤圭氏に、誌上を借りて深謝申し上げます。

〔文献と注〕
[1]福井県教育委員会『文化財調査報告』第一六集、一二頁(一九六六)
[2]東京大学史料編纂所『大日本史料』第一〇編之一七、 一五一頁(一九八二)。
[3]このことは日本医史学会一九九〇年二月例会にて簡報した。