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真柳誠「島田先生の想い出」『内経』137号24-27頁、2000年11月

島田先生の想い出

真柳 誠

 先生が亡くなられたとの連絡を台北で受け取ってもう三ヶ月近く。その夜は月を仰いで先生を想った。しかしご葬儀に出席もできず、今も台湾にいて御遺影に手を合わせることすらできない。そのせいか、先生のご印象は私の中でまだ生き生きとしている。

 私が先生の謦咳に接したのはそんなに古いことではない。ただお名前を知ったのは大学4年の時だったように思う。丸山昌朗先生の門下に藤木・島田のお二人がおられ、藤木先生も亡くなられたので、島田先生お一人で頑張っておられる、という話をうかがったのが最初だったと記憶している。もうふた昔前のことなる。その後も先生のお名前は針灸古典の研究者として、色々な機会で仄聞していた。

 最初にお目にかかったのは私が北京留学から帰国し、北里医史研に無給で通っていた1984年か85年のたぶん夏の日のこと。矢数道明先生に呼ばれて所長室に行くと、こちらが島田先生と紹介された。そのとき島田先生は、同伴された中国からの留学者が北里で研修できないかと相談にみえており、道明先生はそれへの意見を後で私に求められたのだが、どう答えたかは覚えていない。かの島田先生に会えたほうが私の記憶に鮮明で、どうしてあんなに地黒なんだろうとか、ニコニコ笑う先生だなー、などと考えていた。

 のち内経学会の研究会(たぶん湯島聖堂)に招かれ、「内経と本草」について話をさせていただき、後でしこたま飲ませていただいこともある。しかしひどいことに、酒ボケの記憶にはそれしか残っていない。

 先生とゆっくりお話しすることができたのはかなり最近で、たぶん1995年4月の下旬に西安で開催された、第8回中医文献及医古文学術研討会の発表でご一緒させていただいた時が最初だったかと思う。人民解放軍の幹部が西安観光で泊まる奇妙な施設が会議の宿泊兼会場だったが、もとより学術とは無縁の場所。先生は持参されたスライドを投影するプロジェクターがなく、ご講演に苦労され、いささか無念そうにされていたことを思い出す。このとき何度か酒席を一緒にさせていただいたが、しかしニコニコ笑う先生だった。

 その次も中国旅行で、翌96年8月の中旬に安徽省黄山市での第1回海峡両岸中医薬文献医古文及中医薬文化学術研討会だった。私はその5月1日より北里から茨大に移ったばかりで、単身赴任の不養生がたたり、旅行直前にギックリ腰をおこし、松葉杖をついて上海に着いた。運の良いことに上海のホテルは島田先生のグループも一緒で、「なんとか治してくださーい」とお願いしたところ、こころよく徳地氏と二人がかりで治療して下さった。おかげで相当良くなり、翌日は黄山行きの飛行機に楽に乗れるまで回復した。

 それまで私は年一回のペースでギックリ腰を起こしていた。この治療時に受けたアドバイスが、私の腰は睡眠不足で悪くなっているので、毎日よく寝るようにということ。これなら私にも簡単で、以後実行して今まで一度も起きていない。なんて適切なアドバイスだったんだろう、と今も思う。

 黄山では多くの場で先生と親しく話をさせていただき、ようやくニコニコだけではない側面も少しは知ることができた。帰国後は写真を送っていただいたり、先生が研究されていた「癌」という文字の初出文献について何度か手紙をやりとりしたりしていた。その後お会いした年は、いま台湾にいるため確認できないが、98年の暮れだったかと思う。わざわざ水戸まで来られたのだった。

 もともとは、その夏ころに小林氏に来ていただき、大学の私の新しいパソコンを調整していただいたのが話の始まりだった。その後も幾度か小林氏に質問やお願いの電話をしていたが、その内に宮川氏とうかがう、さらに島田先生も来られるという話になった。

 なかなか相互の都合が合わず幾度か逡巡したが、ようやく日程が決まり土曜の夕方に皆さんで茨城大学まで来られた。私の研究室にはとくに見ていただくような資料もなく、ともかくは酒ということで、何度か利用したことがある近くの古部茶屋というアンコウ鍋の店にご案内した。

 その夜は皆でしたたかに痛飲したのを覚えている。先生はご子息の力さんの運転する車で来られていたが、彼が私の院生を希望している旨の話もあった。力さんは東京衛生学園の卒業論文作成のとき、小曽戸氏や私に相談に来られたことがある。また卒後は衛生学園で私の旧友の兵頭氏の下にいたので、衛生学園の訪中団に同行されていた時、たまたま私も北京にいて彼と兵頭氏と一緒に飲み歩いたこともある。

 その後、しばしば力さんとは院受験条件などのメールを交わしていたが、99年の神農祭で島田先生がご入院されたことを宮川氏から伝えられた。早速、力さんに先生のご様子をうかがい、また国立大の規則改正で力さんが私の院生を受験できるようになったことを伝えるメールを出した。しかし彼からの返事は、島田先生の病状が予断を許さず、進学も諦めざるを得ないというものだった。

 それから1年もたたない今、私は先生の想い出をこうして綴っている。あんなにいつも朗らかで、楽しく内経などの話を交わさせていただいた先生はもういない。

 いままで親族や友人の死は幾度もあった。しかしそれとはやはり違う。また師匠筋の先生方が亡くなられた時とも違う。この気持ちは自分でもよく理解できないが、なにか不思議にサッパリしている。あるいは先生が日本内経学会をこれだけ発展させられ、多くの素晴らしい研究者を育成されたからだろうか。先生は悔いのない人生を送られたと想われてならない。なんとか私も先生にあやかりたいと考えている。

 あらためて島田先生のご冥福を心より祈念申し上げる。合掌