料理と敦煌医書

 私の母は料理下手を自認していて、子供のころ家族みなでマズイ、マズイと文句をつけていた。当時は食べ物の好き嫌いが激しく、いまから想像不可能なほど痩せていたのは、この理由もあったと確信している。

 それで小学六年には小麦粉からホットケーキ、中一には凝ったスープと生麺でラーメンを作り、まだホットケーキミックスやインスタントラーメンが普及していなかった時代ゆえ、家族や友人の好評を博していた。しかし実費+αは徴収していたので、昔からセコい性格は変わらない。

 これが長じて一時は調理師への転向を考えたほど料理好きで、いま土日の三食と一週間分の材料を買い集めるのは私の担当となっている。年に数回はご近所の奥様方の要望で中華料理フルコースパーティーを開催し、招待した中国の友人からおせじながらほめられたこともあった。オッ、ホン。

 自慢はさておき、あるとき諸橋『大漢和』で「料理」をひいたことがある。すると中国語では本来「処置する、世話する」の意味しかなく、「調理する、調理したもの」は日本で生まれた意味で、この由来が江戸時代から疑問とされていることを知った。だいたい料と理それぞれの字義から、そうした意味が派生する理由すらよく説明できない。これがずっと気になっていたが、最近ようやく敦煌医書にヒントを発見した。

 ちなみに「調理」にしても、「ととのえる、治療・養生する」が中国語本来の意味で、「料理する」の意味は日本語にしかない。さらに明代1522年に兪弁が著した『続医説』巻2の劉宗序の治験には、「(ある人は)家人の病をいつも自ら料理していた」とあるので、料理には「処置」から派生した「治療」の意味もあった。

 にしても以前から香港や台湾に日本料理などの看板があるのは、まちがいなく日本語の影響だろう。90年代からは大陸でも「〜〜料理」という看板をあちこちで見かけるようになった。日本式の「〜〜屋」も流行しているが、ともに香港・台湾あたりの表現と誤解されているらしい。流行の理由を中国の友人に質問したところ、「〜〜料理」に相当する中国語は「〜〜菜」しかないが、「菜」は副食に限定されるため、主食まで含む「料理」の表現が便利なのだという。なーるほど。

 さて近ごろ佐原真氏の『食の考古学』(東京大学出版会、1996)を読んだところ、私と同じ疑問から「料理」の起源を考察されていた。これによると平城京跡から出土した奈良時代760〜780年の須恵器に「味物(うましもの)料理」の墨書があり、『大日本古文書』巻5からも「請胡麻油…右料理の為…」という同年代の記述を発見されている。大槻『大言海』が平安時代の『(箋注)和名類聚抄』(922〜31)より引用する、「魚鳥を料理する者、これを庖丁という」の用例より相当に早い。

 さらに佐原氏は林左馬衞氏の指摘を補記し、『神農本草』『新修本草』『証類本草』の序例に料理の用例があるという。本草が専門の私にはまさに灯台もと暗しだった。さっそく調べてみたところ、たしかに宋代12世紀の『証類本草』では序例に「合薬分剤料理法則」とある。その前身の唐代659年の『新修本草』(復原本)では「合薬分剤料理法」、さらにその前身の南斉500年ころの『本草集注』(復原本)も同文だった。しかし1〜2世紀の『神農本草』(復原本)にこの文はない。(04,7,13追記。わが国984年の『医心方』巻1には「合薬料理法第六」の項があり、『新修本草』より多くの文章が引用される。すると『新修本草』に「合薬分剤料理法」と記されていたのは間違いなかろう)

 そこで念のため京都・龍谷大学所蔵の敦煌本『本草集注』もみると、なんと「料理」ではなく「料治」になっていた。理由ははっきりしている。唐の高宗帝は名前が李治なので、唐政府編纂の『新修本草』が皇帝の諱の「治」を使えず、『本草集注』の「料治」を「料理」に改めたのだ。同様にトルファン本『本草集注』で「主治…」なのが、敦煌本や仁和寺本『新修本草』では治が省かれ「主…」となっている。当時の医書でも治中丸を理中丸、「…治之」を「…主之」、「治…」を「療…」など、同様に避諱改字された例は多い。薬をついて砕く意味に使用された冶も、治と字形が似るため搗や舂に改められた。そもそも冶は唐代より以前、すでに治に誤写されている例もある。

 すると『本草集注』の「料治」は本来、「料冶」だった可能性がきわめて濃厚と思われる。なぜなら「合薬分剤料理法」でも「合薬分剤料治法」でも意味不通だが、「合薬分剤料冶法」なら「薬を合わせて方剤に分けるためのはかり(料)くだく(冶)法」であり、意味がはっきり通じるからである。したがって方剤を作るまでの操作全般を以前は料冶と表現していたが、唐代からその操作を料理と呼ぶように変化したに相違ない。

 一方、530年代前後の農書『斉民要術』巻3と9では、野菜を加工したり、加工野菜を盛りつける操作全般を料理と表現する。本書は宋以降の版本しか現存しないので推測にとどまるが、これも本来は料冶だった可能性が高いだろう。他方、本書は平安時代の蔵書記録『日本国見在書目録』に載るので、それが唐代の写本で渡来していたなら、必ずや料冶ではなく料理と記述されていたに違いない。

 なお『本草集注』は大宝律令(701)以前に、『新修本草』も奈良時代731年以前に渡来しており、医生や薬園生のテキストに指定されていた。この歴史背景があるなら、あるいは奈良時代からの宮人たちに料冶→料治→料理の表現変化は自明だったかも知れない。そして唐文化の影響を強く受けた結果、料理の語彙および食品加工操作の意味が奈良・平安時代の日本で普及していったと思われる。

 歴代中国で皇帝の諱を避け、数々の語彙が変化したことはよく知られている。しかし由来不詳だった料理の語源まで避諱改変だったと敦煌医書で察知したとき、うーむ、お前もそうだったのかとうなってしまった。ともあれ、いま中国文化圏に普及しつつある日本語としての料理の語彙は、中国の医書と農書にルーツの意味があり、奈良時代から現在の意味が派生していたのである。料理好きにとり、久々に趣味と実務を兼ねた発見ではあった。

(水戸の舞柳)

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