気になる気

 「気が気になり、気が気じゃない」。一瞬、???となる文章だが、よくみると日本語として何も問題はない。意味もはっきりしている。しかし、これを下手に漢文に直訳すると「気為気、気非気」というナゾナゾめいた文章になり、中国人には意味不明になってしまう。ましてや他の言語には直訳すらできない。つまり、この文章は外国語に意訳しかできない日本語独特の表現であり、かくもさように日本語には「気」が氾濫している。

 さて中国医学の根幹をなす概念が「気」であることは、いまや周知に属する。むろんその「気」は中国太古からの思想に根ざしており、必ずしも医学専門の概念という訳ではない。そして冒頭のように日本語にも「気」を含む表現があり、なかには本来は中国医学用語なのに日本で一般用語として定着したり、意味が変化したものがあって、以前から気になっていた。

 ところで、むかしパソコンを買ったとき『広辞苑』のCD-ROM版がおまけに付いていた。最近ふと思いつき、これで気の語彙を検索してみた。すると出る出る、「気」が語頭にあるのが 443件、末尾にあるのが 416件もあった。ところが『中日大辞典』でみると「気」が語頭にある現代中国の語彙は 150件ほどしかない。日本語は中国語より「気」を多用するという話を耳にしたことがあるが、まさにそうだった。「気の毒」やら「食い気」やら、中国語にない語彙もじつに多い。
 
 そこで日本語になった中国医学関連の代表的語彙を、日本語化と意味変化の程度で大きく二分して紹介してみたい。案外ここに日本的な気の傾向が窺えそうだからである。

 まずは中国語本来の意味からあまり変化せず、一般日本語に定着している運気・春気・暑気・寒気・湿気・邪気・胆気・血気・上気・脚気を挙げてみよう。

 運気・春気・暑気・寒気・湿気は医学用語にも転用された天の気で、それが生体に悪影響するなら邪気と呼ばれる。しかし、運気以外は現中国で一般に用いられることがほとんどない死語となってしまった。ちなみに、日本では邪気も一般用語化したため、無邪気という独自の語彙が生まれ、本来の一般中国語にも医学用語にもない意味で用いられている。

 つぎに胆気・血気・上気だが、皆もともと医学用語だった。たとえば医学古典の『素問』が、胆は「決断を出す腑」と規定したので胆気は「決断力」、さらに「きもったま」になったのである。いま中国では「きもったまがある」ことを「胆子大(胆が大きい)」というが、古くは「大胆」といい、日本語にも定着している。

 血気は文字通り血と気のことで、ともに生体を流通して全身にエネルギーを運搬している。それで「血気さかん」の表現が日本にあるのだろう。これをいまの中国語では、「気血方剛(気血がガチガチ)」という。上気も生体の気がのぼせ上がることだが、現中国の一般用語では「怒る(生気−気が生じる、ともいう)」「湯気が上がる」の意味でしか用いられない。

 脚気は4世紀、北方の動乱から南に逃避した漢民族が遭遇した足のなえる風土病で、米食中心のビタミンB1 欠乏症か黄変米などのカビ毒が原因だったらしい。唐代までその意味で用いられ、一般日本語としても定着している。ただし中国では、のち獣肉・乳製品の多い食生活に変化したためか発症が激減し、一般では死語となってしまった。その一方で「みずむし」を脚気と呼ぶことが始まり、いま一般中国語の脚気には「みずむし」の意味しかない。そして本来の脚気は医学専門用語のため知る人は少なく、ふつうは脚風湿や軟脚病などと呼んでいる。

 そういえば脚気を英語などでBeri Beri というのは最初に研究報告されたインドネシアでの病名に由来するが、かつて北京で売っていた「脚気水」という水虫チンキの箱には、「Beri Beri Water」とも印刷されていた。あまりに笑えたので一本購入し、いまも記念に持っている。
 
 以上の語彙は、どちらかというと中国の古い意味で日本語となっていたが、のち中国では意味が変化したり死語となったりしていた例が多い。ならば中国医学用語が一般日本語として定着し、意味が相当に変化している例ではどうだろう。これを正気・短気・陽気・陰気・気味・元気で見てみたい。

 まず正気だが、本来の意味は邪気に対する生体の抗病力である。ところが日本語の正気は正常な気分や気持ちであり、気の意味が心や意識に変化しているようだ。短気もそうで、もともとは呼吸が短く息切れする状態をいうが、日本語の短気は気が短いことで、やはり気が心や精神の意味になっている。日本語の陽気・陰気も心や精神の性格を陰陽で分けており、宇宙や人体すべての気を陰陽に二分する本来の意味より相当に限定されている。

 気味はもともと薬物の性格を規定する概念で、病体を暖めるか冷やすかの寒熱温涼の気と、古代の栄養素ないし成分を象徴する酸苦甘辛などの味をいう。これは薬物の評価基準だったので、「気味が好い」「気味が悪い」という表現が日本で一般化したのだろう。そして薬物の評価がしだいに心理状態の表現に転用かつ限定され、さらに「小気味好い」「小気味悪い」という強調表現まで生じたに相違ない。

 元気もこれに近い。本来の意味は五臓の腎にある生命力の根源をなす気で、もちろん元気がなくなれば死に至る。ところが日本では心身の活動の源、さらに気力と体力を合わせた意味に転用され、ついに現在の元気という意味に限定されていったのだろう。

 こうしてみると、明らかに日本独自の語彙である男気・女気・浮気・悪気・平気・根気・血の気なども、みな心や精神の様子をいっている。むろん中国医学でいう「気」にも心や精神はあるが、より大きく根源的な「気」の概念から派生した一部にすぎない。

 ところが日本では気を精神や心の意味に制限する傾向があり、それで中国医学の気の用語まで一般化とともに意味が変化した。この一方で古い気の語彙を使い続けてきた。まさに日本が中国文化を取捨選択して受容し、その保存と日本化を同時になし遂げてきた歴史を体現している。日本の伝統医学もそうである。
 
 ちなみに冒頭の「気が気になり、気が気じゃない」は、以上からすると「気のことが心にあるため、心が正常を保てない」の意味であり、これなら外国語に翻訳可能だろう。でも中国語も日本語も、やっぱり「気」は難しくて気になる。

(水戸の舞柳)
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