証と症はややこしいで證

 
 現在の中国医学や漢方には「証」という独特の概念があり、現代医学でいう症候の「症」とは違うと定義している。すなわち証は頭痛や便秘など単なる1症候ではなく、病因と有機的関係にある症候群に近い概念だという。しかし明瞭に定義づけられない部分もあるため、しばしば「証とは何か」といったシンポジウムが開かれている。他方、現在の中国も日本も「證」は証の旧漢字、つまり略字や俗字にたいする正字だとする。

 私も以前はそう信じていたし、こうした区別に疑問をさしはさんだ論説を知らない。ところが古方派大家の吉益南涯に『観症弁疑』という著述があるように、江戸期や明清代に症を證・証と同じ意味で使用している文献は多数あり、かねてより気になっていた。彼らが漢字に無頓着だったはずはない。どこかで生じた誤解が広まったのだろう。それも近代になって、と考えるにいたった。

 そこで九牛の一毛ではあろうが、あえて多勢に抗して卑見を開陳したい。ややこしい漢字の話だが、大きな問題なのである。
 
 『温疫論』という1642年に中国で著された医書をかつて読んでいたとき、巻下の正名篇に次の記述があることに気づいた。「病證の證を後人は省略して筆画の少ない証で書き、後さらに証のゴンベンを省いてヤマイダレを加え、症の字を作った」、というのである。この真偽は確かめねばなるまい。
 
 まず證だが、音はショウで、意味は多い。早くは「つげる」の用例が前450 年ころの『論語』からみえる。つぎに「あかし」の用例が前270 年ころの『楚辞』から、「いさめる」の用例が前235 年以前の『呂氏春秋』から出てくる。のち「病候」の意味での用例が前200-後300 年ころの『列子』から出現していた。  

 一方、証は音がセイで、「いさめる」の意味の用例が前400-200年ころの『戦国策』からあった。セイ・ショウの音では「あかし」が643年の『晋書』から出現。そしてショウの音で「病候」の用例が元・関漢卿(1230-80)の元曲台本『拝月亭』に、「病人に変証はなく、ゆっくりと陰陽に伝わる」という文章で初めて出てきた。しかも『拝月亭』の別伝本では、「変証」が「変症」となっている。この作者の関漢卿が元の皇帝の侍医で、太医院尹という位にあったことは興味深い。

 さて以上のように、もともと證の音はショウであり、「つげる」「あかし」「病候」の順で意味を拡大していた。また別字である証の本来の意味、「いさめる」も吸収したことが分かる。一方、証の音はもともとセイで、訂正や是正の正「ただす」から派生した「いさめる」の意味だった。それが7世紀以降になって證に代用され始め、その音のショウと意味の「あかし」と「病候」を吸収していったのである。

 そこで問題の症であるが、元の『碧桃花』という元曲台本に「寒けや発熱があるが、どんな症候なのか分からない」とあるのが早い用例で、元・鄭徳輝『倩女離魂』にも同じ「症候」がある。上述のように『拝月亭』の別伝本でも、「変証」が「変症」と記されていた。さらに明代になると症の用例が急増してくる。

 結局、『温疫論』のいうとおりだだった。音がショウの證を病候の意味に使うのは前200-後300 年ころからで、これが別字の証に転用されたのは千年も後の元代13世紀のこと。ほどなく病候に意味を限定したショウ音の症が証から作字され、明代から普及していたのである。しかし證・証と症に、症候群と単一症候といった区別は当初からなかった。

 それもそうだ。医学古典ができた1〜3世紀ころに症の字もあれば、あるいはそんな区別ができた可能性もあろう。ところが当時、病候の意味を持っていたのは證の一字だけで、どだい区別のしようなどない。つまり症候群にも単一症候にも證を用いるしかなかったのであり、3世紀に著された医学古典の『傷寒論』にも単一症候を意味する證の用例がある。

 そして元代から病候の證に証の字が代用され、さらに証から症が作字されたのだから、病候をいう證と証と症の字義は本質的に同一だったのである。明清代や江戸期はこうした事情がおよそ自明だったからこそ、筆写にも便利な症の字を證・証と同様に使用する例が多かったのだろう。彼らが文字に無頓着だったのではない。  

 では、いつから証(證)は症候群、症は単一症候という説が始まったのだろう。管見のかぎり、そうした区別は江戸期と清代までにみえない。するとヨーロッパ語のSymptom を症候と翻訳した現代医学が、本格的に普及し始めた近代からに違いない。

 症の字に上述の由来があることを忘れたとき、手にした医学古典には證の字しかない。一方、現代医学で症の字が普及した。そのうえ戦後、日中両国の政府はともに別字の証を證の略字と規定してしまい、証を普通に用いる漢字とした。以上の要因が重なり、ついには、「症」と違う「証(證)」とは何なのかという、まじめで悲しい議論が日中ともに行われるにいたったのである。

 ほんとに証と症はややこし證だった。

(水戸の舞柳)

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