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真柳誠「料理の語源と敦煌医書―ことばの日中キャッチボール―」『日中医学』20巻4号24-26頁、2005年11月
料理の語源と敦煌医書―ことばの日中キャッチボール―
真柳 誠(茨城大学人文学部教授)
料理好き
私の母は料理下手を自認していて、子供のころ家族みなでマズイ、マズイと文句をつけていた。当時は食べ物の好き嫌いが激しく、いまから想像不可能なほど痩せていたのは、この理由もあったと確信している。それで小学六年には小麦粉からホットケーキ、中一には凝ったスープと生麺でラーメンを作り、まだホットケーキミックスやインスタントラーメンが普及していなかった時代ゆえ、家族や友人の好評を博していた。
これが長じて大卒後は調理師への転向を一時考えたほど料理好きで、いま土日の三食と一週間分の材料を買い集めるのは私の担当となっている。年に数回はご近所の奥様方の要望で中華料理フルコースパーティーを開催し、招待した中国の友人からおせじながらほめられたこともあった。
料理ということば
自慢はさておき、あるとき何かの関連で「料理」を諸橋『大漢和辞典』でひいたことがある。すると中国語では本来「処置する、世話する」の意味しかなく、「調理する、調理したもの」は日本で生まれた意味で、この由来が江戸時代から疑問とされていることを知った。いま中国で最大を誇る『漢語大詞典』でも、料理の意味の最後に「日語漢字詞。烹調。亦借指肴饌」とあり、和製漢語と断定している。だいたい「料」と「理」それぞれの字義から、そうした意味が派生する理由すらよく説明できない。これがずっと気になっていたが、近年ようやく敦煌医書にヒントを発見した。
ちなみに「調理」にしても、「ととのえる、治療・養生する」が中国語本来の意味で、「料理する」の意味は日本語にしかない。さらに明代1522年に兪弁が著した『続医説』巻2の劉宗序の治験には、「(ある人は)家人の病をいつも自ら料理していた」とあるので、料理には「処置」から派生した「治療」の意味もあった。
にしても以前から香港や台湾に日本料理などの看板があるのは、まちがいなく日本語の影響だろう。1990年代からは大陸でも「〜〜料理」という看板をあちこちで見かけるようになった。日本式の「〜〜屋」も流行しているが、ともに香港・台湾あたりの表現と誤解されている。流行の理由を中国の友人に質問したところ、「〜〜料理」に相当する中国語は「〜〜菜」しかないが、「菜」は副食に限定されるため、主食まで含む「料理」の表現が便利なのだという。
料理の古い用例
以前、佐原真氏の『食の考古学』(東京大学出版会、1996)を読んだところ、私と同じ疑問から「料理」の起源を考察されていた。これによると平城京跡から出土した奈良時代760〜780年の須恵器に「味物(うましもの)料理」の墨書があり、『大日本古文書』巻5からも「請胡麻油…右料理の為…」という同年代の記述を発見されている。大槻『大言海』が平安時代の『和名類聚抄』(922〜31)より引用する、「魚鳥を料理する者、これを庖丁という」の用例より相当に早い。
さらに佐原氏は林左馬衞氏の指摘を補記し、『神農本草』『新修本草』『証類本草』の序例に料理の用例があるという。本草学が専門の私にはまさに灯台もと暗しだった。さっそく調べてみたところ、たしかに宋代12世紀の『証類本草』では序例に「合薬分剤料理法則」とある。その前身の唐代659年の『新修本草』(復原本)では「合薬分剤料理法」、さらにその前身の南斉500年ころの『本草集注』(復原本)も同文だった。しかし漢代1世紀頃の『神農本草』(復原本)にこの文はない。
本来は「料冶」で、薬物・食物を加工することだった
そこで念のため京都・龍谷大学所蔵の敦煌本『本草集注』もみると、なんと「料理」ではなく「料治」になっていた。理由ははっきりしている。唐の高宗帝は名前が李治なので、唐政府編纂物の『新修本草』が皇帝の諱の「治」を使えず、『本草集注』の「料治」を「料理」に改めたのだ。そうした歴代の避諱を列記した『史諱挙例』にも例が多数あるが、他に医学関連でも少なくない。
治中湯(『大観本草』所引の『図経本草』が引く『張仲景方』)を理中湯(張仲景『金匱玉函経』。張仲景『金匱要略』は人参湯に作る)、「…治之」「治…」(『小品方』ほか)を「…主之」「療…」(『外台秘要方』ほか)など、当時同様に改変された例は多い。薬をついて砕く意味に使用された「冶」(『小品方』『医心方』ほか)も、治と字形が似るため「搗」や「舂」に改められた(『千金方』『外台秘要方』ほか)。そもそも冶は唐代より以前、すでに治に誤写されている例(敦煌本『本草集注』)もある。
すると『本草集注』の「料治」は本来、「料冶」だった可能性がきわめて濃厚だろう。なぜなら「合薬分剤料理法」でも「合薬分剤料治法」でも意味不通だが、「合薬分剤料冶法」なら「薬を合わせて方剤に分けるためのはかり(料)くだく(冶)法」であり、意味がはっきり通じるからである。したがって方剤を作るまでの操作全般を以前は料冶と表現していたが、唐代からその操作を料理と呼ぶように変化したに相違ない。
一方、310年頃の葛洪『肘後卒救方』にも鼠瘻(頚部潰瘍)の治療に「猫狸(ネコ?タヌキ?ハクビシン?アナグマ?)一匹を料理して羮(あつもの)とし、食事と同様に空腹時に服用すると、鼠が死んで傷口から出てくる」とある。唐代の孫思邈『千金翼方』巻22にある「猪肚煮石英服方」という処方では、配剤する猪肚(ブタの胃)に「一具。浄め、食べる方法のように料理する」の注記がある。
両者ともに日本語の料理と同様の意味にとれるが、『肘後卒救方』の料理は当書の伝本経緯が不明瞭なため、葛洪本来の文で料理の語彙だったかは判断が難しい。『千金翼方』もはたして孫思邈(581〜682頃)の著述か相当にあやしいが、『外台秘要方』(752)が引用するので、それ以前の成立は間違いない。とすると唐代8世紀まではブタの胃を洗浄し、湯がく加工法などを料理と呼んだのだろう。
料冶・料治・料理の語の日本伝来
ちなみに『肘後卒救方』の別伝本らしい『葛氏方』は『日本国見在書目録』(891〜97頃)に載るので、平安時代までに伝来しているが、『千金翼方』の伝来は鎌倉以降になる。
さらに530年頃の農書『斉民要術』巻3と9では、野菜を加工したり、加工野菜を盛りつけたりする操作全般を料理と表現する。本書は宋以降の版本しか現存しないので推測にとどまるが、これも本来は「料冶」だった可能性が高いだろう。本書名も『日本国見在書目録』に載るので、それが唐代の写本で日本に渡来していたなら、必ずや料冶ではなく料理と記述されていたに違いない。
なお『本草集注』は大宝律令(701)以前に、『新修本草』も奈良時代731年以前に渡来しており、医生や薬園生のテキストに指定されていた。この歴史背景があるなら、あるいは奈良時代からの宮人たちに料冶→料治→料理の表現変化は自明だったかも知れない。そして唐文化の影響を強く受けた結果、料理の語彙および食品加工操作の意味が奈良・平安時代の日本で普及していったと思われる。
ことばの日中キャッチボール
歴代中国で皇帝の諱を避け、数々の語彙が変化したことはよく知られている。しかし由来不詳だった料理の語源まで避諱改変だったと敦煌医書で察知したとき、うーむ、お前もそうだったのかとうなってしまった。ともあれ、いま中国文化圏に普及しつつある日本語としての料理の語彙は、中国の医書と農書にルーツの意味があり、奈良時代から現在の意味が派生していたのである。だから私はこれを「ことばの日中キャッチボール」だと思う。料理好きにとり、久々に趣味と実務を兼ねた発見ではあった。