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真柳誠「三木栄先生の学恩」『医譚』復刊64号54-58 頁、1993年5月

三木栄先生の学恩

真柳 誠


 医史学で私が心に師と仰ぐ先生はかなり多い。しかしそれは論文や著作に感銘を受けて勝手に私淑しているにすぎず、実際に拝顔の機会や知遇を得ることが叶えられた先生となると、うんと少なくなってしまう。たった一度しか御尊顔を仰ぐことができなかったけれど、私は三木栄先生をそのような数少ない心の師とさせていただいている。

 約十年前の一九八三年十月、私は初めて三木先生の著作を知った。その時よほど驚いたことを今も覚えている。

 当時は中国留学から帰国したばかりで、医史学を志したが、もちろん浪人しか方途はなかった。これをみかねた矢数道明先生の御恩情で、御蔵書整理の仕事をいただき、初めて三木先生の御著書『朝鮮医学史及疾病史』『朝鮮医書誌』に接したのである。

 それ以前の私は、李氏朝鮮時代も中国の年号が使われていたことを知らなかった。それで留学時代の小論の注に、朝鮮医書を序文の年号から中国医書のように書いてしまったことがある。梁哲周氏にこれを指摘された直後だっただけに、私は三木先生の両書をむさぼり読んだ。そして論考の浩瀚さと緻密さにたちまち傾倒し、勝手に三木先生を心の師と仰ぐことにした。

 矢数先生御蔵書の『朝鮮医書誌』は孔版本で、非売品と奥付にある。それで活字本の再版があるのも知らず、お借りして全コピーし、二冊に製本して今も使っている。のち増修活字本の『朝鮮医学史及疾病史』も購入した。その総序に「不通朝鮮医学、不可以説日本及中国医学」と、三木先生があえて中国文で記された言葉は特に印象深い。まさしくその史実が両書に満載されているからである。また付録の三国医学交流史鳥瞰年表はとても便利なので、二種ともに自宅の机の前と横に掲げ、ことあるごとに年代を確認したり加筆したりしてきた。今はもう紙もかなり黄変している。

 一九八五年、先生の『朝鮮医事年表』がついに公刊されたとき、『科学史研究』誌に紹介文を書く機会が与えられた。ラブレターの気持で書き上げ、別刷をおそるおそる送り申し上げたところ、懇切な御返事をいただき、初めて先生の肉筆に接した。感激した。以後いただいた御手紙は全部ファイルしてある。

 わがボス、研究所長の大塚恭男先生は酔うと必ずといってよいほど、昔かわいがっていただいた医史学の先生の話を私共にされる。三木先生もその一人。学会々場の前に陣取り、演者の発表中はガーッと高いびきで、スライドが終り明るくなるとパッと目をさますこと。しばしば太田典礼先生の発表に、フロアーから鋭い質疑を出されたこと。学会が終ると、よく「おい大塚君、一杯やろうか」と誘っていただいたこと等々。そんな光景が見てもないのに私の目に浮び、その場に同席させていただいている様な気すら覚えたこともあった。

 咋年のこと。医史学雑誌の編集委員会の席で、三輸卓爾委員長から耳よりな話をうかがった。長老インタビューとして、編集委員からも誰か三木先生を訪問しては、ということである。私が行きます、と即座に名のり出た。そして長門谷洋治先生に無理にお願いし、京都・日文研の共同研究会がある前日、五月七日木曜日の午後に日時を設定していただき、その日を指おり数えて待った。そんなある日、当研究所薬剤科主任の金成俊氏と帰りに飲む機会があった。韓国籍の金氏と話はいつしか三木先生の御業績に及び、二人で涙を流さんばかりに意気投合。金氏もぜひ三木先生にお会いしたいという。またもや長門谷先生に御手数をかけ、お願いしていただいた。

 大塚所長に託された手紙を持ち、宗田一先生・長門谷先生と駅前でおち合い、一行四人で三木先生宅を訪ねた。念願が叶えられたのである。おうかがいしたいことは山とある。この日を三木先生も楽しみにしておられたという。部屋に集められた多くの著作と資料を前に、先生のお話は熱をおび、初めての拝顔と拝聴に私も興奮した。話題は次々と移り、夢のように時間ばかりが過ぎてゆく。パイプをくゆらせ、「ワシにこれは薬じゃ」と笑われた顔。朝鮮医史の三部作は、韓国でも読めるよう、意図的に漢字を多用して書かれたとのお話。医史学への情熱から、オフレコの発言がとび出した時の急な真顔。一緒に遅めの昼食をいただいた時の健啖ぶり、などが強く印象に残っている。

 しかし長居は却って先生のお体に毒とのことで、夢みた時間を終らせねばならなかった。その帰途、一同で長門谷先生においしい夕食をごちそうになったが、まだ私の興奮は続いていた。そのお店を出る時いただいたマッチを、京都のホテルに着いてから見てびっくりした。「三木」という屋号だったのである。そんな長門谷先生の御配慮にも気付かなかったのだから。

 ところで三木先生は、御白慢の資料も私共に見せて下さった。明治九年、日本と李氏朝鮮政府の修好条約が締結されたとき、日本からの礼品として喜多村直寛版の『医方類聚』が贈られている。本書は朝鮮医書でありながら、世界で日本の一部しか現存していなかった。それで本書を復刻した喜多村版が贈呈されたのだが、この外務省手続書と朝鮮政府謝辞の写しを見せていただいた。またカメラに収めることも許していただいた。

 その全文や詳細な経緯は、『朝鮮医書誌』に記されている。ただ実物のカラー写真は未発表だった。三木先生の御研究を顕彰したく、これを『漢方の臨床』誌に小曽戸洋氏と分担連載のカラー口絵に紹介することを考えた。しかし話の順序として、宮内庁書陵部蔵の朝鮮版『医方類聚』の現物カラー写真を先に紹介したい。宮内庁に申請後、写真と掲載許可が届いたのは九月。すぐ『漢方の臨床』十月号に朝鮮版をまず載せた。これと次の紹介を合わせて三木先生にお見せするつもりだったが、十月号だけでも先に送らなかったのは今でもくやまれる。

 というのも喜多村直寛版の撮影などで遅れ、三木先生ご所蔵の手続書を口絵に紹介するのが十二月号になってしまったから。十二月号が出る直前の朝、新聞で三木先生の訃報に接した。急ぎ十二月号の色校正刷をバイク便で取り寄せ、十月号の口絵と合わせ、大塚所長に同伴して新幹線にとび乗り、通夜に向かった。

 葬儀の会場に着いたのは、ちょうど献花が始まったとき。三木先生の穏やかなお顔の写真が目に入った。以前の先生をご存じの大塚所長と、五月に一度拝顔したきりの私とでは、お写真を見た感想がまるで違う。そんな昔から三木先生の謦咳に接せられた所長がうらやましい。でも一度とはいえ、心の師に会えたことは幸せ。先生に感謝の気持を念じながら献花を終えた。しかし最終新幹線の時間が迫っている。ご遺族に挨拶もできず、十月号と十二月号の口絵を受付に託し、会場を後にした。

 三木先生から与えられた学恩に報いることが御生前ほとんどできず、暗い気持の車中。が、お清めの液体が効を奏し、大塚所長から思い出話をうかがっている内に、あの日に先生が呵呵大笑されたお顔が浮び、許しを得た気持になった。勝手なものである。

 今も、ふつう一週間に一回は、三木先生の著書を開かねばならない。また敦煌医書や堺の医史の研究も、先生の業績ぬきではありえない。その度に学恩のありがたさを、ひしひしと覚える。最近は先生の研究姿勢や方法にも、もっと学ばねばならない、と考えるようになった。わずか七年弱、浅い御交宜を賜わったにすぎないが、先生はすばらしい学問を私共に遺して下さった。その恩に、あらためて感謝の言葉を申し上げたいと思う。先生の御冥福を衷心から祈りつつ擱筆する。

(北里研究所附属東洋医学総合研究所医史学研究部)