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真柳誠「表紙絵解説−宝暦6年(1756)の人体解剖図」『日本医史学雑誌』42巻3号287頁、1996年9月

宝暦6年(1756)の人体解剖図


 近年、慶應義塾大学の磯野直秀教授が日本解剖史における新発見をされた。そこで磯野教授のご同意を得て、その報告(「宝暦六年の人体解剖図」『科学医学資料研究』240号、1994)より写真を表紙絵に転載させていただき、広く斯界に紹介することにした。

 この解剖図は東京国立博物館蔵・木村蒹葭堂旧蔵写本の『随観写真』(20巻10冊)に載る。本書は田村藍水に本草を学んだ後藤光生(1696-1771)の編で、宝暦7年(1757)の序文はあるが、同12年までの注記があることなどから、完成は宝暦末年か明和初年らしい。

 解剖図は右が正面、左が背面で、ともに彩色されている。右に「宝暦六丙子八月、東都官医集会於千住刑場、而令屠児解罪人之全躯、即図之」とあり、宝暦6年(1756)8月に幕府医官が千住刑場で死刑囚の遺骸を解剖させたときの絵図と分かる。山脇東洋が京都で観臓した2年後である。従来知られていた江戸でもっとも早い解剖記録は、明和8年(1771)の千住小塚原での腑分だった。

 一方、『蘭学事始』はそれ以前にも江戸で解剖が行われていたことを記すが、具体的証拠がいままでなかった。それが『随観写真』から現れたのである。しかし解剖に参集した幕府医官などの記録はまだ発見されていない。今後の研究が期待され、ここに紹介した所以である。

(真柳 誠)