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真柳誠「漢方一話  処方名のいわれ93−小建中湯」『漢方医学』25巻2号92頁、2001年4月

小建中湯(ショウケンチュウトウ)

真柳  誠(茨城大学/北里研究所東洋医学総合研究所)



 本方は3世紀の仲景医書に由来する『傷寒論』『金匱玉函経』『金匱要略』の3書を出典する。薬味は桂枝湯の桂枝・芍薬・生姜・甘草・大棗に膠飴を加えた6味で、桂枝湯より芍薬が倍増されている。したがって桂枝加芍薬膠飴湯なのであるが、それが小建中湯と呼ばれるには当然いわれがある。

 さて小建中湯に対するのは大建中湯だが、このように大小を冠して処方に命名するのは、どうも仲景医書の処方が最初らしい。無論それら大小の処方は、構成薬や適応証に共通性がある。かつ相対的に大は実証、小は虚証に用いられ、さらに大より小の処方が汎用されて代表的という傾向もある。

 それゆえ古くは、単に建中湯といえば小建中湯を指したらしい。これは葛洪(283-343)の『抱朴子』巻5至理篇に「黄耆建中之湯(黄耆湯と建中湯)」、および『肘後方』巻4虚損羸痩篇に「建中腎瀝湯法(建中湯と腎瀝湯の法)」の記述があることなどで分かる。

 一方、建中の中とは中焦、つまり脾胃の意味に解釈するのが12世紀の成無己『注解傷寒論』から一般化している。日本でも浅田宗伯(1815-94)が『勿誤薬室方函口訣』の小建中湯条で当説をいう。しかし本来はいささか違うようだ。

 例えば6世紀初の旧態が残る敦煌出土の『輔行訣臓腑用薬法要』には、「建中補脾湯」の名で小建中湯と同一薬味が記される。この方名は「中を建て、脾を補う湯剤」なので、中と脾は明らかに区別されている。また当時もし中が脾の意味に認識されていたなら、たぶん「建脾湯」と命名されていただろう。では古く、建中の「中」とはいったい何を指していたのか。

 この考証を山田業広(1808-81)が未刊の『医学管錐内集』巻12に記していた。すなわち『傷寒』『金匱』『脈経』等には小建中湯が小腹痛、つまり下焦の腹痛も治す記載がある。ならば建中の中を、中焦と判断することはできない。けっきょく「中」とは、『傷寒』『金匱』の小建中湯条文にある腹中痛の「腹中」全般を指しているのだ、という。けだし卓見である。