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真柳誠「漢方一話  処方名のいわれ92−黄耆建中湯」『漢方医学』25巻2号87頁、2001年4月

黄耆建中湯(オウギケンチュウトウ)

真柳  誠(茨城大学/北里研究所東洋医学総合研究所)

 本方の出典は3世紀の仲景医書に由来する『金匱要略』で、その血痺虚労病篇に「虚労裏急、諸不足、黄耆建中湯が之を主る」とのみ記される。これでは主治文が少なくてよく分からないばかりか、薬味は記載すらない。が、宋の林億らが本書を1066年に初刊行した際の注に、「小建中湯に黄耆を加える」とあるので、小建中湯の6味に黄耆が加わった計7味と分かる。

 一方、『金匱要略』と同様の主治文は7世紀の『千金方』巻19と、8世紀の『外台秘要方』巻17にあり、ともに上述の7味も明記している。つまり本方は小建中湯加黄耆で間違いないが、黄耆を主薬とするので黄耆建中湯と名付けられた、と理解していいだろう。

 なお『金匱要略』では本方の直前に小建中湯の条文があり、その林億注は『千金方』巻19の小建中湯条を引用する。ただし林億注末尾の「六脈倶に不足、虚寒乏気、少腹拘急、羸痩百病、名づけて黄耆建中湯と曰う」の一文だけは、『千金方』や同文を記す『肘後方』巻4に見えず、何から引用されたか分からない。

 また当文末の「名づけて黄耆建中湯と曰う」も前とつながりの悪い句だが、どうも林億らは前句を黄耆建中湯の主治と認知して引用したらしい。ならば本方の主治は「虚労裏急、諸不足」と、出典不明の「六脈倶に不足、虚寒乏気、少腹拘急、羸痩百病」になろう。

 ちなみに本草での黄耆の初出は1-2世紀の『神農本草経』中薬だが、なぜ黄耆というのだろう。むろん黄色いから「黄」なのだが、問題は「耆」である。耆には古くから「老」や「長」の意味がある。それで16世紀の『本草綱目』は、黄耆が補薬の「長」ゆえ「黄色い耆」なのだと説くが、時代錯誤というしかない。

 そもそも黄耆を上薬でなく、中薬に分類した『神農本草経』の時代に、それを補薬の長とする考えなどない。黄耆が人参とならぶ補薬として世に認識されたのは、李東垣流の参耆説が普及した明代からなのである。とするなら、黄耆の根が二、三尺にも伸びるので、「黄色く長い」の意味で黄耆と呼ばれた、という森立之『神農本草経攷注』の説を是とすべきである。