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真柳誠「漢方一話  処方名のいわれ88−滋陰降火湯」『漢方医学』24巻5号240頁、2000年9月?

滋陰降火湯(ジインコウカトウ)

真柳  誠(茨城大学/北里研究所東洋医学総合研究所)


 本方名を読み下すと、「陰を滋(うるお)し、火を降ろす湯」となる。この場合の「陰」とは生体内の水分をいい、「火」とは陰の不足で相対的に亢進した虚火をいう。つまり方名は、陰の不足を滋養して虚火を降ろす湯液、という意味になろう。

  本方の同名異方はいくつかあり、早いのは{龍+共}信・{龍+共}廷賢の『古今医鑑』(1576)巻7虚労に載るものと思われ、滋陰降火湯と記して節斎 (王綸)の文章を引く。これは王綸『名医雑著』(1502)労{ヤマイダレ+祭}の文章だが、そこでは補陰瀉火湯の名で載る。すると滋陰降火湯の名に改め たのは、{龍+共}信・{龍+共}廷賢父子のいずれからしい。

 その変方がいま日本で一般に使用される滋陰降火湯で、出典は{龍+共}廷賢 の『万病回春』(1587)巻4虚労である。廷賢は本書の計12箇所に本方とその加減の運用を記すので、よほど気に入っていたらしい。また滋陰地黄湯・滋 陰百補丸・滋陰清化丸・滋陰清胃丸などの処方も載せるので、滋陰という治療法自体も好きだったことが分かる。

 ちなみに医薬書における降火の表現は、劉完素『保命集』(1186)の消渇論と中風論に見えるのが早い。滋陰の付いた処方では、羅天益『衛生宝鑑』(1281)の巻17胞痺門に載る滋陰化気湯からで、これ以前の書には見いだせなかった。

  さて『四庫全書提要』(1782)が「朱丹渓(1282-1358)は滋陰降火を重んじた」、と丹渓『格致余論』の解題に記して以来、滋陰降火は丹渓流の 代名詞となった。しかし丹渓の各書を見ても、補陰抑陽や養陰など似た表現はあるが、滋陰降火はどうも見当たらない。そこで調べたところ、丹渓と滋陰降火を 結びつけた早い用例が劉純『玉機微義』(1396)にあった。その巻8論痰飲致{亥+欠}に丹渓の言葉として引く「陰降火」を、劉純の按語は「陰降火」に言い換えているのである。

  これ以降では『丹渓心法』(1450-56)、『医学正伝』(1515)、『古今医統』(1564)、『瀕湖脈学』(1564)、『医学入門』 (1575)などに滋陰降火の表現が多用されていた。『医貫』(1602-17)巻4には「滋陰降火論」という小論文まであり、清代17世紀の書からは一 般化していた。こうした16世紀後半からの流行と議論があって、{龍+共}信・{龍+共}廷賢父子が改称した滋陰降火湯の方名も生まれたといえるだろう。