大黄甘草湯は大黄・甘草の二味からなるので、そう命名されたに違いない。これで本コラムの目的は果たせたことになるが、それではあまりだろう。少しは文字を埋めねばなるまい。
さて、このように構成薬名で処方に命名するのは張仲景が最初らしいが、とりわけ『金匱要略』に多いのは、北宋の校訂がある程度関与していることをすでに何度か述べた。まさしく本方の出典は『金匱要略』で、その巻中の嘔吐{口+歳}下利病篇に載る主治条文には、「食し已(おわ)りて即ち吐く者、大黄甘草湯が之を主る」とある。これ以下には「『外台方』また吐水を治す」という北宋の校訂注があり、『外台秘要方』に載る大黄甘草湯では「吐水」も主治にあるという。
ところで大黄を最初に収載した中国本草書は1世紀ころの『神農本草経』だが、出土書では紀元前の馬王堆医書等に見えず、記載は紀元前後ころの敦煌木簡と1世紀の『武威漢代医簡』から始まる。大塚恭男先生はこれらのことから、大黄の薬用が中国で知られたのは紀元前後のことだろうと考証されている。大黄は『傷寒論』『金匱要略』の処方で重要な役割を担っているが、当時としては案外と最新薬だったのである。
『神農本草経』はまた、大黄の別名に将軍を記す。いささか風変わりな別名だが、そのいわれを陶弘景の『本草集注』(500頃)は「(瀉下作用の)駿快さによる」という。たしかに大黄の瀉下は即効的だし、はっきりとしているので弘景の推定も頷ける。
一方、16世紀の李時珍は弘景の説として、「大黄の名はその色による」と『本草綱目』に記す。こんなこと弘景の記述にはないので、時珍の誤認だろう。しかし3〜4世紀の『名医別録』は大黄に「黄良」の別名を記し、漢代までに開発されたと思われる黄色の生薬で、形状を大といえるのは大黄しかない。すると誤認にしても、李時珍の説はそれなりに説得性がある。
他にも大黄や甘草の別名には論究すべきものがいくつかあるが、紙幅も尽きたので別の機会にしよう。