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真柳誠「漢方一話  処方名のいわれ73−麻杏{艸+意}甘湯」『漢方診療』18巻4号4頁1999年8月

麻杏{艸+意}甘湯(マキョウヨクカントウ)

真柳  誠(茨城大学/北里研究所東医研)

 本処方は麻黄・杏仁・{艸+意}苡仁・甘草の4味からなる。もちろん処方名は各薬名から一字を採ってならべたにすぎない。出典は3世紀初の張仲景医書に由来する『金匱要略』で、本書にはこうした命名の処方が多い。その理由は本連載の72で述べた。

 さて仲景医書の処方で麻黄や杏仁・甘草を含むものは多いが、{艸+意}苡仁(ハトムギ)を配剤した処方は本方と{艸+意}苡附子散・{艸+意}苡附子敗醤散の3方しかない。しかも3方とも『金匱要略』が出典で、『傷寒論』やその異本『金匱玉函経』にはひとつもない。どうしたことだろう。そこで{艸+意}苡仁について調べてみた。

 医薬書では1世紀ころの『神農本草経』に{艸+意}苡子の名で初出し、別名を解蠡と記すが、出土した紀元前の文献には{艸+意}苡も解蠡も記載がない。『史記』以来の史書を調べると、初出は『後漢書』だった。その馬援伝に次のようにある。

  馬援が出兵してベトナムの交阯にいたとき、いつも{艸+意}苡の実を食べていると体が軽くなり、欲を抑えることができた。また疫病の瘴気にもかからなかった。南方の{艸+意}苡は実が大きいので、援は栽培するため軍が還るとき車いっぱいに持ち帰った。時の人は南土の珍怪とし、権貴の人々は皆これをほしがった。

 馬援(前14−49)は後漢の武将で、光武帝に仕え伏波将軍として交阯(コウチ)を討ち、新息侯に封ぜられた人。また『後漢書』以前の文献に{艸+意}苡の記載がないのなら、以上の話はかなり信憑性が高いだろう。

 馬援が交阯から都の洛陽に帰ったのは44年のこと。「南方の{艸+意}苡は実が大きい」というのは、{艸+意}苡と同属の川殻(ジュズダマ)と比較してのことだろう。すると{艸+意}苡は1世紀中葉から中国に広まったらしい。それから150年ほど後の張仲景が{艸+意}苡仁配剤方を3方しか記録しなかったのもうなずける。

 一方、『傷寒論』方に{艸+意}苡仁がないのは、それらがより古い時代の創方であることを示唆する。仲景自序に「勤めて古訓を求め、衆方を博采」したとあるが、『傷寒論』方は基本的に仲景以前のものなのだろう。