本方は出典が『金匱要略』巻下の婦人姙娠病篇第20で、{艸+弓}窮(川{艸+弓})・阿膠・甘草・艾葉・当帰・芍薬・乾地黄の7味から構成される。むろん方名はそのうちの{艸+弓}窮・当帰・阿膠・艾葉から各1字を採用したに過ぎない。このように主要構成薬から各1字を取って方名とするのは苓桂朮甘湯など『金匱要略』の処方に多く、同じ張仲景の『傷寒論』『金匱玉函經』にはそう多くない。当相違はこれら3書を11世紀に林億らが初めて校訂出版したとき、『金匱要略』の底本とした書に節略が多かったため、あいまいな方名には正確を期して薬味名を列記したことによるらしい。
というのも本方の主治条文には「…膠艾湯が之を主る」とあるが、構成薬文の冒頭では「{艸+弓}帰膠艾湯方」と記す。一方、本方と同一薬味の処方は唐代7世紀の『千金方』巻2と8世紀の『外台秘要方』巻33にあり、ともに「膠艾湯方」と記す。ならば唐代までは膠艾湯と呼んでいたが、林億らが『金匱要略』を校訂した際に{艸+弓}帰膠艾湯の名も与えたに間違いなかろう。
ところで本方の主薬のひとつ艾葉は他の仲景処方に配剤例がなく、『神農本草経』にも収載されていない。さらに『千金方』と『外台秘要方』の主治文は数文字程度の差しかないが、『金匱要略』とは相当に違う。しかし、ともに妊婦の不正出血が主治であることは一致している。本方は仲景処方なのだろうか。
さて林億らは本方に「ある伝本では乾姜1両を加えるが、胡洽が婦人の胞動を治す方には乾姜がない」と注記しており、胡洽は5世紀の人である。また『外台秘要方』の上述処方は6世紀の『集験方』から引用されている。このように5世紀から使用が広まっている処方なら、仲景方がルーツである可能性も否定できない。ともあれ古い時代から応用され続けてきた処方であることには相違ない。
なお本方の方意は四物湯に阿膠・甘草・艾葉を加味したもの、とされることもある。しかし四物湯はより後代に開発の処方なので、歴史的には本方から阿膠・甘草・艾葉を去ったのが四物湯というべきだろう。
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