甘麦大棗湯は『金匱要略』下巻婦人雑病篇第22が出典である。本書は3世紀初の張仲景が編纂した『傷寒雑病論』の雑病部分に由来し、北宋代に伝わっていた不完全な伝写本から一種の復元作業により、1066年に初めて校定・刊行され世に広まった。
『金匱要略』の書式からして甘麦大棗湯はこの校刊時に増補された処方ではないが、仲景の書に由来する『傷寒論』などには記載がない。類文があるのは仲景の書を集成して後世に伝えたとされる、3世紀末の王叔和が編纂した『脈経』巻9の第6篇くらいだろう。
さて『金匱要略』の主治条文は、「婦人の蔵躁、しばしば悲傷して哭せんと欲し、かたち神霊のなす所の如く、しばしば欠呻す。甘麦大棗湯これを主る」と記す。一方、『脈経』では「蔵躁」が「蔵燥」、「甘麦大棗湯」が「甘草小麦湯」となっている。『金匱要略』の甘麦大棗湯は甘草・小麦・大棗の3味を湯とするので、方名はまさしく読んで字のごとし。
他方、『脈経』の「甘草小麦湯」は薬味を記さず、それが甘草・小麦の2味だったとは速断できない。というのも『金匱要略』の主治条文以下、構成薬味文の冒頭は「甘草小麦大棗湯方」と記すので、その大棗を略して甘草小麦湯と呼んだ可能性も十分考えられるからである。
蔵「躁」と蔵「燥」については、山田業広『金匱要略札記』に詳細な考証がある。これによると古くは子宮が蔵と呼ばれたこともあるので、子宮の血が乾燥している意味になる『脈経』の「蔵燥」に妥当性が高いという。至当な解釈といえよう。
ちなみに小麦や大麦を使う処方は『金匱要略』に計5首あるが、前2世紀の出土医書に漠然とした麦の記載が1回あるのみで、『傷寒論』など漢代の他医書や薬書には記述すらない。本草書では4〜5世紀の『名医別録』から小麦・大麦を収載するので、麦類の薬用開発はそう早くないらしい。とするなら甘麦大棗湯の出典は『金匱要略』であるにしても、仲景〜叔和ころの創方だった可能性も疑っておくべきだろう。