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真柳誠「漢方一話  処方名のいわれ64−茯苓飲」『漢方診療』17巻5号15頁、1998年10月

漢方一話  処方名のいわれ64 茯苓飲

真柳  誠(茨城大学/北里研究所東医研)


 茯苓飲は3世紀初に張仲景が編纂した書に由来する『金匱要略』が出典とされ、これを茯苓飲というのは茯苓が主薬だからに相違ない。飲とは湯剤と同じく煎じる剤型のことで、○○飲子や○○煎という呼称もある。しかし仲景の処方は○○湯が普通なのに、なぜ例外的に本方を飲というのだろう。

 そもそも仲景の処方とされる湯剤で、煎・飲・飲子の呼称は『金匱要略』にしか見えない。このうち煎は3方に用いられており、説明は省くが、あるいは仲景以前からの表現の可能性がある。飲は茯苓飲の1方のみ。飲子も四時加減柴胡飲子の1方のみで、「疑うに仲景方に非ず」という、11世紀に本書を校訂し初めて出版した林億らの注までついている。

 さて『金匱要略』は本方を「外台茯苓飲」と記し、付方に載せる。そこで『外台秘要方』を見ると茯苓飲は巻8に2条文、巻18に1条文があった。いずれも唐代7世紀後半頃の『延年秘録』から引用だが、この書はすでに現存しない。『外台秘要方』巻8の2条文は違う内容で薬味が同一、巻18のは別処方だった。

 さらに巻8の最初の条文は『金匱要略』と完全に一致し、その条文末尾には「張仲景傷寒論も同じ」という8世紀中頃に『外台秘要方』を編纂した王氏の注がある。すると8世紀の「張仲景傷寒論」にも同類の条文があった。ただし『延年秘録』の条文がより引用に適切だったので、「張仲景傷寒論」のを採用しなかったのだろう。林億らはこの王氏の注により本方を仲景の処方と判断し、『金匱要略』を校訂したとき付方に載せたのである。

 以上のように本方は仲景が編纂した原書→(?→)→『延年秘録』→『外台秘要方』→『金匱要略』と引用が重ねられ、現在に伝えられた。そして本方に飲という仲景以降らしい呼称が与えられたのは、『延年秘録』以前のいずれかの段階であったろう。仲景の原書では茯苓湯とでも呼ばれていたのだろうか。