真柳 誠(茨城大学/北里研究所東医研)
本方の名を参蘇飲というのは人参と紫蘇葉を主薬とするからに相違ない。飲というのは湯剤と同じく煎じる剤型のことで、同様に飲子という呼称もある。
煎剤を○○湯と名づけるのは、後漢時代3世紀初めに張仲景が編纂した書に由来する『傷寒論』『金匱要略』から見える。しかし、○○飲・○○飲子という表現がいつごろ、どのような意味合いから使われ始めたのかは、今のところよく分かっていない。一方、唐代長安の記録によると、疲労回復の薬茶を飲子と呼んで街角で売っていた。北宋時代の都の様子を克明に描いた『清明上河図』にも、路地の「香飲子」と掲げた屋台で立ち飲みする様子が見える。もっとも、この飲子という字は絵図にきわめて小さくしか書かれていないので、かつては「餃子」に誤読されていたが。
こうした史実からすると、○○飲や○○飲子という処方は、もともと疲労回復用などに路上で売られていた薬茶だったかも知れない。ちょうど今のドリンク剤のように。これらのうち卓効があったものが、のち医療用として広まった可能性も考えられよう。そういえば○○飲・○○飲子という処方の薬味がおおむね多いのは、本来は健康ドリンクで広範囲に効くよう処方されたためだろうか。
ところで本方の出典は一般に宋代の『和剤局方』とされている。たしかに淳祐年間(1241〜52)に出版されたその第5版で傷寒門に初めて収載された。しかしそこには、木香のない十味の参蘇飲が12世紀後半の『易簡方』に載ると付記されている。さらに小山誠次氏の調査によると、『易簡方』の作者の師が著した『三因方』(1174)まで本方の出典を遡ることができるという。語源や出典の調査はじつにやっかいで、決定打を見つけるのは本当に難しい。