真柳 誠(北里研究所東洋医学総合研究所)
猪苓湯は3世紀初の仲景医書が出典で、『傷寒論』陽明病篇・少陰病篇や『金匱玉函経』、また『金匱要略』消渇小便利淋病篇などに記載される。猪苓・茯苓・阿膠・滑石・沢瀉の5味からなり、もちろん本処方名は主薬の猪苓にちなむ。ただし猪苓を配剤する本方以外の仲景医方は五苓散と『金匱要略』にある3味の猪苓散のみで、計3首しかない。
なお五苓散の方名はもともと猪苓散だった。それで3味の猪苓散と区別するため五味猪苓散といい、さらに五苓散になったことは幕末の森立之がすでに考証している。一方、猪苓は『神農本草経』から本草書に収載されたが、これに増補した『名医別録』は効能を追加しない。前漢や後漢の出土医書にも猪苓の記載はない。仲景医書の猪苓配剤方も3首のみなので、かつて猪苓はさほど常用されない薬物だったようだ。
これには猪苓の古義が関係するかもしれない。『神農本草経』は猪苓の別名に{豕+(暇−日)}猪矢(屎)を記し、それに陶弘景は「塊で皮が黒く、猪屎に似るためこう名づけられた」と注釈する。むろん中国語の猪は日本語のブタをいい、イノシシではない。つまり豚の糞らしい外観からの命名である。
別な解釈もできる。晋の司馬彪は『荘子』徐無鬼にある「豕零」について、司馬本が「豕嚢」に作るといい、「一名を猪苓、根が猪卵に似て渇きを治す」と注する。獣類の卵とは睾丸をいうので、「猪卵」は豚の睾丸、そして「豕嚢」は豚の陰嚢ということになる。すると豚の陰嚢に類似することから古くは豕嚢とよばれ、のち豕零そして猪苓に変化したと解釈できる。茯苓の和名マツホトが、松の陰嚢をいう古い和語であることも当解釈を支持しよう。
しかし糞・陰嚢のいずれにせよ、この薬名では服用する気になれない。かつて常用されなかった理由だろうか。猪苓の古義は詮索すべきでなかった。反省!