真柳 誠(北里研究所東洋医学総合研究所)
苓桂朮甘湯は『傷寒論』太陽病中篇・発汗吐下後病篇および『金匱玉函経』太陽病上篇・発汗吐下後病篇に同類条文、また『金匱要略』痰飲咳嗽病篇に別条文が載り、茯苓・桂枝(桂皮)・白朮・甘草の4味からなる。ゆえに正称は全薬名を連続して茯苓桂枝白朮甘草湯といい、苓桂朮甘湯はその略称で『金匱要略』にみえる。
本方の適応証は寒邪が七、八分去り、残余の二、三分が盛んな飲の中にある病態、と一般に説明される。君臣佐使の論法では飲を除く茯苓を君とし、桂枝・白朮を臣、甘草を佐とするので、この順で薬名を配列して処方名としたらしい。『千金方』巻9発汗吐下後第9で、『傷寒』『玉函経』と同類条文の本方を茯苓湯と記すのも、主薬を茯苓と判断するからだろう。
ところで茯苓を前3世紀の馬王堆出土医書は伏霊・伏{櫺−木}・服零などと記し、『史記』亀策伝には「下有伏霊、上有兔糸」、『淮南子』説林訓には「伏苓掘、兔糸死」とある。仁和寺本『新修本草』・敦煌出土医書や『医心方』では伏苓と記す。すると紀元前は伏霊・伏{櫺−木}・服零、後漢代から唐代までは伏苓が一般的だった。そして服・伏・茯、霊・{櫺−木}・零・苓が音通するので、宋代から茯苓の表記になったことが分かる。
一方、『広雅』釈草は「茯神、茯{艸+零}也」という。{艸+零}は霊と音通し、霊と神は同義だからだろう。『太平御覧』の引く『(神農)本草経』が「茯苓、一名茯神」と記すのも同じこと。したがって現在は茯苓が包み込んだ松の根を、茯神と呼んで効能的にも区別するが、もともと茯神は茯苓の別名にすぎなかった。
なお茯苓に平安時代の『本草和名』は末都保度(マツホト)の和名を記す。「保度」は『日本書紀』にも多出する陰部の和語なので、マツホトとは松の陰嚢をいう。これは幕末の森立之の考証で、さらに彼は中国典籍からも傍証する。卓見といえよう。