真柳 誠(北里研究所東洋医学総合研究所)
木防已湯は仲景の『金匱要略』痰飲咳嗽病篇が出典で、木防已(防已)・石膏・桂枝(桂皮)・人参の4味からなる。むろん方名は主薬の木防已にちなむ。
木防已の配剤方はなぜか仲景の『金匱玉函経』『傷寒論』になく、『金匱』に本方と木防已去石膏加茯苓芒硝湯があるのみ。後者は11世紀の『図経本草』が、当時の仲景医書から引用する増減木防已湯のことだろう。一方、防已配剤方は『金匱』『玉函経』に少なくないが、『傷寒』にはひとつもない。なぜだろう。
この防已は現在までに出土した前漢・後漢時代の文献に記載がなく、『傷寒』に防已や木防已がないのもこれが理由かも知れない。ところで1世紀頃の『神農本草経』には「防已、一名解離」とあり、仲景とほぼ同時代3世紀前半の『呉普本草』にも「木防已、一名解離」とある。すると解離の別名が一致するので、3世紀頃までの防已と木防已は同一物だったらしい。このようなことで、いま日本は一般に両者を区別せず、木防已湯にも防已を配剤する。
一方、3〜5世紀頃の『名医別録』は解離について「防已は輻(車軸と外輪を放射状に支える棒、スポーク)のように紋様の解離したものが良い」と語源を説き、「漢中地方に生える」という。他方、陶弘景(452-536)の注は「青白色で虚軟なものが良い」としたが、659年の『新修本草』注は「漢中の防已は黄実で香りがあり、青白で虚軟なものは木防已といって使えない。これを陶弘景が良品というのは漢中産を見ていないからだ」と批判した。同様に6世紀頃の『雷公炮炙論』も「木条以(木防已)を使うなかれ」という。
この見解が普及した唐以降、それまでの文献で混用されていた防已・木防已は次第に防已の表現に統一され、その防已は漢中防已つまり後世の漢防已に理解されていった。現在の仲景医書に木防已が少なく、防已が多いのは恐らくこうした結果らしい。