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真柳誠「漢方一話 処方名のいわれ116 排膿散及湯」『漢方医学』27巻3号136頁、2003年8月)

排膿散及湯(ハイノウサンキュウトウ)
 
真柳  誠(茨城大学/北里研究所東洋医学総合研究所)
 3世紀の仲景医書に由来する『金匱要略』の瘡瘍腸癰浸淫病篇第18には、排膿散と排膿湯が載る。その合方が排膿散及湯だが、方名を直訳すると「膿を排す る散および湯」となってしまう。なお『金匱要略』の両方はともに主治文がなく、構成薬味に排膿散は枳実・芍薬・桔梗(さらに鷄子黄)、排膿散は甘草・桔 梗・生薑・大棗が記されるにすぎない。この所以は『金匱要略』を林億らが校刊した序文に、その底本が「あるいは証(主治文)ありて方(構成薬味)なく、あ るいは方ありて証なし」だった、と記すことから理解されよう。

 のち7世紀の『千金方』や8世紀の『千金翼方』『外台秘要方』等にも、各種の排膿散や排膿○○散が載る。しかし『金匱要略』と同一薬味の処方は見出せな かった。『金匱要略』の両方に主治条文がないせいか、そうした別処方の排膿散等が多々創方されたせいか、中国では『金匱要略』の両方の応用があまり見られ ない。むろん両方を合わせた排膿散及湯は中国の創方ではなく、日本で江戸時代に始まった。

 曲直瀬道三の『啓迪集』(1574)にも排膿散は載るが、『金匱要略』のものではない。『金匱要略』の両方の応用が広まったのは吉益東洞以降と思われ る。それは彼の『類聚方』(1762)に、「排膿湯…。為則(東洞)案ずるに、粘痰あるいは膿血ありて急迫する者、これが主る」、また「排膿散…。為則案 ずるに、瘡癰ありて胸腹拘満する者、これが主る」、と主治証が記されたからである。のち雉間煥の『類聚方集覧』(1803)では、「排膿散。瘡家の胸腹拘 満、もし粘痰を吐き、あるいは便血する者を治す」と、主治文がいささか詳しくなった。

 では誰が両方の合方を始め、それを排膿散及湯と呼んだのだろう。当然、東洞の可能性が高く、尾台榕堂の『類聚方広義』(1856)には「東洞先生、排膿 湯排膿散を合して排膿散及湯と名づく」とある。他方、『東洞先生投剤証録』に「排膿散及湯合方」の症例があることから、東洞が排膿散と排膿湯の合方を排膿 散及湯と略したらしい、と小山氏(『エキス漢方方剤学』)は指摘する。恐らくそうに違いないだろう。