のち7世紀の『千金方』や8世紀の『千金翼方』『外台秘要方』等にも、各種の排膿散や排膿○○散が載る。しかし『金匱要略』と同一薬味の処方は見出せな かった。『金匱要略』の両方に主治条文がないせいか、そうした別処方の排膿散等が多々創方されたせいか、中国では『金匱要略』の両方の応用があまり見られ ない。むろん両方を合わせた排膿散及湯は中国の創方ではなく、日本で江戸時代に始まった。
曲直瀬道三の『啓迪集』(1574)にも排膿散は載るが、『金匱要略』のものではない。『金匱要略』の両方の応用が広まったのは吉益東洞以降と思われ る。それは彼の『類聚方』(1762)に、「排膿湯…。為則(東洞)案ずるに、粘痰あるいは膿血ありて急迫する者、これが主る」、また「排膿散…。為則案 ずるに、瘡癰ありて胸腹拘満する者、これが主る」、と主治証が記されたからである。のち雉間煥の『類聚方集覧』(1803)では、「排膿散。瘡家の胸腹拘 満、もし粘痰を吐き、あるいは便血する者を治す」と、主治文がいささか詳しくなった。
では誰が両方の合方を始め、それを排膿散及湯と呼んだのだろう。当然、東洞の可能性が高く、尾台榕堂の『類聚方広義』(1856)には「東洞先生、排膿 湯排膿散を合して排膿散及湯と名づく」とある。他方、『東洞先生投剤証録』に「排膿散及湯合方」の症例があることから、東洞が排膿散と排膿湯の合方を排膿 散及湯と略したらしい、と小山氏(『エキス漢方方剤学』)は指摘する。恐らくそうに違いないだろう。